前回までのお話はこちら…




今回は、番外編として私の幼少期の頃のお話を少し…


私は関東近郊の割りと都心に近い地域で産まれました。

父は元々九州から高校卒業後にこちらに上京して、鉄鋼関係の会社で働いていました。

父は子供の頃から家が大変貧乏だったらしく、傘も買えないほどだったとか…

そんなこともあり、大学への進学は諦め、働いたと言っています。



一方母、都内下町出身で話を聞く限りお嬢として育てられ、音大を出て中学の音楽の教師をしていました。


そんな共通点も何も無い2人は旅行先で知り合ったとか。

大人になってからその話を聞いて意外すぎてびっくりしたことを思い出します笑



結婚後、私が生まれてすぐ社宅に入ることになり、すぐに引っ越して、そこに九州に住む祖母を呼び寄せて一緒に住んでいました。

ところが、母の親も見ることになり、小学校一年生で入学してすぐに今の母の実家にみんなで引っ越しました。


そして、その実家で祖母2人と両親、私と妹と間もなくして、3番目の妹も生まれ、7人で生活していました。


母方の祖母は病弱でいつも寝ていて起きてくるのは食事の時くらいで、ほとんど自分の部屋で過ごしているイメージ。

一方の父方の祖母は、私が小学生くらいまではパートでサンドイッチなどを作る工場で働いていました。

お花が好きで、家にいる時はいつも庭仕事をしている人でした。

おかげで、いつも庭がキレイだったことを覚えています。


この母方の祖母は、父方の祖母よりも若かったので、家のこともやっていたイメージ。


洗濯物を片付けたりして、穴が空きそうな靴下があると、いつも裁縫道具を出してきて、端切れを当てて縫い付けていました。

私のおパンツのゴムが伸びてくると、ゴムを替えてくれたり…ズボンのゴムもいつも替えてくれてました。

何でもいつもササッと直してまた着れるようにしてくれてましたが、当時の私はそれが嫌で嫌で…

靴下なんかは、布を当てた所が少しボコってなるので、当たって痛いんです。

履き心地も悪くて…でも言えないので我慢して履いてました。


なんでこんなにやるかというと、母方の祖母は祖父が家にお金をほとんど入れない人だったらしく、

父を含めて4人の子供を育てなくてはならなかった祖母は、ずっと魚屋さんで働いていたそう。


父は傘を買うお金さえも勿体ないから、自分の傘は買ったことないと言ってました。

買うなら妹たちに使わせてあげないと可哀想だろと…  初めて聞いた時は衝撃でした。



祖父は若くして病気で亡くなっているので、写真でしか見たことはないですが、父が祖父の亡くなった年齢になった時に、親父を超えられたと言ってたのが印象に残っています。


お酒どギャンブルが、大好きな祖父だったそうです。

父も同じ系統ではありましたが、お金の管理は母がしっかり?やっていたので、お小遣いでやりくりしていたそう。


とはいえ、若い時はとにかくそこまで収入が多かった訳ではないので、7人で生活するのは大変だったと母が言ってました。


母自身、義母である祖母を呼び寄せた後も教師を続けるつもりでいましたが、孫の世話は怪我させたら怖いから出来ないと言われたそうで、泣く泣く辞めたので、収入は父のみになり、社宅暮しとはいえ相当苦労したと。


多少、母方の祖母が毎月少しの生活費は入れてくれていたそうですが、大変だったわと言ってました。


父も年齢が上がる事に出世していき、最後は上場企業の部長にまでなりましたが、私が学生の頃は妹達もいるので、高校は絶対公立入ってねと言われてました。

滑り止めに私立も受けてましたが、無事に公立に入りましたよ笑


思いのほか話が長くなりましたので、続きはまた書きます。



最後までお読みいただきありがとうございます。