祖父の趣味で整えられた広大な庭は手入れの行き届いた芝生が敷きつめられ、ドーム型の温室には美しい花や珍しい植物がある。

僕は幼い頃からこの庭で遊ぶのが好きだった。

特に気に入っているのが藤棚。

満開になるとまるでシャンデリアのようで、幼い僕は飽きることなく眺めていたのだった。


ちょうど今満開で、幼い頃を思い出しながら藤の花を眺めていると、きらきらと光が降ってきた。

「天気雨か。」

雨に濡れた藤棚の美しさは格別で、そのまま静かに降り続ける雨を見ているうちに、ふと思い出した。


≪ゆの、ちゃんみんのおよめさんになりたいな。≫

ユノ…

ギュッと僕に抱きついて離れなかったあの子。

たった一度だけこの庭で遊んだ。

あれ?

ユノはどこの子だったっけ?

≪ちゃんみん!≫

僕を呼ぶ声。少し舌足らずで可愛らしくて。


記憶を遡ると、頭に浮かんだのは小さな仔ギツネ。

あれ?ユノは人間の男の子だったはずだけど。

藤棚の下でちょこんと座って僕を見ていた仔ギツネが、僕の頭の中から離れない。


目線を芝生に落として記憶を手繰っていると、藤の花が揺れた。



揺れた花の下には、男がいた。

背が高くて、まるでモデルのようなスタイル。

アーモンド型の瞳は黒目がちで、僕を見ていた。


紫色の花の中から現れたその人は、僕に向かってまっすぐに歩いてくる。


なんだろう。

全身の血が沸騰したかのように身体が脈打ち始めた。

目が彼から離れない。

行かなきゃ。

身体を動かす度に、ジンジンと痺れる。

歯を食いしばっていないと自我が保てそうにない。

僕の身体がアラートを発しているかのようだ。





「チャンミン。俺のこと覚えてる?」

目の前にきた彼が少し不安げに僕を見る。


この目は、あのときの仔ギツネの目と同じだ。


「…ユノ?」

口から出た名前がスイッチのように彼は全身で喜び、僕に抱きついてきた。


「チャンミン!」


僕よりホンの少しだけ背が低いから、抱き締めるとぴったりとお互いの身体が収まる。

どこにも余りがなく、不足もない。


抱き締める腕に力をいれると、かすかに「くぅん」と声が聞こえた。



ユノの首筋から何とも言えない芳香が溢れる。

噛みつきたい。

思わず舌先を首筋に沿って滑らせると、ユノは吐息を甘く吐いた。

上気した顔を隠そうともせずに、チラリと僕を見る。


「チャンミン、噛んで。」


ユノは僕の手を自分のうなじに導く。

「ここだよ。お嫁さんにしてくれるんだろ?」


うなじを噛むのは番の証。


「ダメだよ、こんなところで…僕の寝室においで。」


ユノは一瞬瞳を揺らした。








チャンミンに手を引かれて家屋に入っていくユノを見届けるかのように藤の花が揺れている。


「うまくいったようですな。」

「今宵は祝言だ。」

「嫁入り行列は月が真上にくる頃に。」

「お仕度のために、一度ユノ様をお屋敷にお連れせねば。」

「湯あみも。」

「きっと動けぬであろうから、輿の用意を。」


藤棚の下では大勢のキツネたちがザワザワとお喋りしている。


「皆様、少しお声を抑えてくださいませんか。契りの妨げになります。」

藤の花を掻き分けてやって来たのは、チャンミンの弟のミンホだった。

「ミンホどの。」

「兄の寝室はすぐそこです。皆様の声が聞こえたらユノ様が恥じらってしまうではありませんか。」

「ややっ、これはすまない。契りが失敗したら祝言があげられぬ。」



キツネたちは口許に手を当てて身体を小さく丸めた。







オメガとして生まれた以上どこかへ嫁がなくてはならないが、一族の長の子であったため、いずれ政略婚に使われるであろうとユノが生まれたときから周囲は考えていた。

育つにつれて愛らしさが増すユノを政略婚のために使いたくないと、一族の誰もが思い始めた頃に藤棚の下でユノが迎えた運命の出会い。


「ゆのはちゃんみんのおよめさんになるの!ちゃんみんがおむかえにきてくれるの!だから、どこへもいかない!」

屋敷から一歩も出なくなってしまい、子供同士の口約束だからと言うこともできず周囲は困り果ててしまった。



ユノの兄であるヒチョルはチャンミンが人間であることを説明し、番となることは難しいかもしれないと言った。

それを聞いたときのユノの落ち込みようはそれはそれは大変なもので、大好きなお菓子も手を付けず、庭にポツンと座りこんで誰も寄せ付けなかった。

「ヒチョル様、どうなさるんです?」

背中を丸めて芝生に座るユノの後ろ姿にため息をついて、ヒチョルは召し使いたちに言った。

「ユノの初恋の相手を調べてこい。」


屋敷から一斉に飛び出した光は日暮れと共に戻ってきて、ヒチョルの前に揃った。


「初恋の君は、シム財閥の長男チャンミンどのでございます。」

「御兄弟は弟が一人。兄弟ともアルファのようです。」

「男兄弟がいるのか。」

「しかも、財閥の跡取りですが、まだ許嫁は決まっておりません!」

「ヒチョル様、先手必勝でございます。」

ヒチョルは水鏡にシム家の様子を映し出し、おや、という顔をした。

「そうか、この御方の御子息であったか。ならば申し分はないな。挨拶に行くとするか。」







契りを終え、気だるくぐったりとしているユノは、あっという間にキツネたちに連れ去られた。

チャンミンは状況が飲み込めず、天気雨の中に消えていく豪華な輿を見ていた。

「チャンミニヒョンも仕度しないとね。お衣装は預かってるから。もう準備できてるからシャワーしたら隣にきて。あ、軽食も用意させるから。お腹減ったでしょ?」

「は?仕度?衣装?何のことだか分からないんだけど。」

ミンホはさあさあとチャンミンをバスルームへと追いながら、さらりと言った。


「今夜は、チャンミニヒョンとユノ様の祝言だよ。」

「はぁ?」

「はいはい、綺麗にしてきてね。」


パタンと静かに閉まるドアを見つつ、チャンミンの頭の中は『祝言』という言葉がグルグルと回る。


祝言…

てことは、あれか、僕は結婚するのか。

って、えぇっ?!



Fin