このところ水曜日に東京都から埼玉県にかけてを襲ってくる集中豪雨。しつこい雷。
帰りの通勤時間帯の襲来というのが厄介だ。
そのスコール(のイメージ)にも似た降りかたを見て、
「日本は温帯気候のはずなのに、これじゃ亜熱帯だよ」
「地球が温暖化してるってことだよね」
という「紋切り型」の意見を口にするひとは多い。
が、しかし、そもそも地球は温暖化していないということを知らないし、知ろうとも思わないひとが、いまだ浜の真砂並みなのだ。
頻発する集中豪雨、最近の言い方の「記録的短時間大雨」は、「地球温暖化」とは無関係だ(なにしろ温暖化していないのだから)。
しいていえば、都市部の家屋密集化と、その家屋のエアコン室外機から排出される膨大な熱量と湿気が、天候に影響を与えていることは考えられる。
あくまでも熱と湿気であって、二酸化炭素ではない。
暑いときには外出を控えて冷房の効いた室内にいるようにしましょう、という某放送局の呼びかけなどもあってか、排出される熱は増大する一方だ。
暑いから冷房をつける。冷房をつけるから(屋外は)ますます暑くなる、という悪循環。
都心で作られた熱が風向きと地形の関係で埼玉県の熊谷方面に流れるので、熊谷市が日本でも最高記録レベルに暑いのだ、というのはよく知られた話である。
その熊谷市で41.1度の最高気温を記録したのは、2018(平成30)年の7月23日なんだよね。
(2020年8月17日に、浜松市も同一記録を樹立(?)し、日本最高記録に並ぶ)
おれの知り合いの年配者のなかには、わずか2、3年後には日本は暑くて人間が住めなくなると心底心配している人もいるんだけど、急激な「温暖化」「灼熱化」「沸騰化」などしていないということは、最高気温の記録が、もう6年も更新されていないことでもあきらかだ。
都心部におけるエアコンの過剰使用を抑制したいと思うなら、東京をせめて江戸時代並みの「水の都」にして、自然の冷却機能を復活させるべきである。
そうしないと、都市部のゲリラ豪雨はいつまでもつづく。
いくら二酸化炭素の排出を抑制しても、焼け石に水ならぬ、焼け石に吐息だ。
・・・なんて思っていたら、今度は宮崎の地震である。
8月8日。
1月1日の能登につづき、ぞろ目がお好きなようである。
さらには、被害の実態よりも、「南海トラフ地震」の警告を鳴らすのに熱心なようだ。
あれ? 頭のなかにこの言葉が自動的に涌いてきた。
「今年は、最後の悪あがきをするカバールの醜態を、じっくり見守っていきましょう!」(西森マリー)
悪あがきのとばっちりを受けないように、最低限の備蓄は心がけていきましょう。
・・・といった言葉などまったく届きそうにもない、昆虫脳のスマホ・ジャンキー。
かれら自身が他人を認識していない(虚無化している)というのは、もはや言うに及ばず。
その対話拒否・関係性断絶の「意思」はまたたくまに血肉と化し、かれらの肉体自体が沈黙化するようになる。
つまり、
かれらが周囲を見ないようにするのと呼応して、周囲の人間からもかれらが「見えなく」なってくる
のである。
どういうことか。
かれらは周囲を見ていない。これは、文字どおりの現実だ。
一方、周囲の人間にとっては、物理的に見えないということではない。
物理的には見えている。かれらが近づいてくるのは見えている。
しかし「見えない」。
なぜなら、かれらの身体からは、なんの「メッセージ」も出ていないからだ。
「無表情」の不気味さは誰もが感じることであろうが、スマホ・ジャンキーの歩いている姿はまさに「無表情」そのままなのだ。
全身が「無表情」。
(デザイナーがAIで作成した画像らしい)
なにを考えているのか。
どこへ向かおうとしているのか?
状況に関係なく急に方向転換しないのか?
人々が往来を行き来する際、各々の全身から無意識に発している「メッセージ」によって、調和と均衡がとれている。
しかるに、かれらからはメッセージが皆無なので、まったく、その「先」が見えないのだ。
哲学的に言えば、人間は「今の一瞬」だけを見て世界を認識しているわけではない。「今より一瞬前の過去」と「今より一瞬先の未来」を含めて見ることで、対象を認識していると言えるだろう。
どこから来て、今どこで、これからどこへ行くのか。
しかし、身体からなんのメッセージも発せられていない場合、相手の「一瞬先の未来」が見えないので、姿そのものが「見えなく」なってしまうわけだ。
一方、物理的に見えていないと、周囲からも「見えなく」なってしまうかいうと、必ずしもそうではない。
たとえば、白杖をついている人からは、ちゃんとメッセージが発せられている。
少なくとも、白杖の人が急に方向を転換することは、まず無いといえる。物理的に見えないがゆえに、そんな危険な行動には出ないだろう、と周囲の人に「予測」させてくれる。
その意味で、共存に必要なメッセージを発しているといえるのだ。
ところが、みずからブラインデッドとなっているスマホ・ジャンキーは、そういった必要最低限のメッセージすら出していない。
もちろん、自分が「なにも発していないがゆえに相手から見えなくなっている」とは想っていない。
自分は見ようとしないくせに、「周囲からは自分はちゃんと見えてるから問題ない」と想っている。
ボクのこと見えてるでしょ? だったら、ちゃんと対処してね。ぶつかりそうになったら、そっちからどけてね、と無限の自己中心的思考で言い訳をしている。
でも、暗闇で無灯火の自転車が見えないように、たとえ明るい場所でも、身体からなにもメッセージを発していないにんげんは「見えない」のだ。
予測ができない。信用できない。相手の善意を期待できない。
なにをしでかすか窺い知れない、不気味な存在。
平気でぶつかってきたり、無駄に動線を塞いだりして、物理的に邪魔になることだけは一丁前の透明人間。
自分がそんな不可視の存在になっていることなど夢にも想像していないやつが、ときどき一転しておれに突っかかってくることがある。
この前の休日、通勤経路とは別の電車に乗ったとき、降りる際におれの踵を軽く踏んだ歩きスマホの若い男がいた。
降りてからホームをほぼ併行して歩いているとき、おれが斜め後ろを振り返ると、一丁前にそいつは顔をあげて、おれを見た。もしかしたら、すぐ前の乗客の踵を踏んだという自覚はあったのかもしれない。だが謝るでもなく、逆におれを睨んできた。
自分の行動が相手を怒らせたのではないかという自覚はあるが、そんな細かいことで文句を言ってきたら怒っちゃうぞ、という態度である。昆虫脳にはよくあるパターンだ。
しかめっ面をして、装着していたワイヤレスイヤフォンの片方を外して、「文句があるなら言ってみろ」とういう表情をした。途端に、いたずらに「メッセージ」を発する存在になったというわけだ。
おれは日常生活でもけっこう言いたいことはズケズケ言うタイプなのだが、そのときのおれは、あえて対話を拒否してやった。
対話をする価値もないということもたまにはあるのだ。
連れもいたので、なおさら、かかずらっていられなかった。
おれは聞こえよがしに(ホームはそれほど混んでいなかった)、
「前を見てないからぶつかる。それだけ」
と言ってやった。
たぶん、(イヤフォンをはずしていたので)聞こえたと思うが、反論はなかった。
別に「勝った」とも思わず、そもそも「勝負」するような問題ではないのだが、なに気ない、ふだんはっきり認識していないような微妙な営みの集積で人間社会が成り立っていることを、ジャンキーたちは意識したことすらないのだろう。
ジャンキー(junkie):ドラッグ中毒者の語源は、ジャンク(junk):ゴミである。
スマホにジャンク化されてしまった不可視の物体は、今後しばらく、増えることはあっても、減ることはないだろう。
だが、いずれ減る。
減ったときの減り方こそが見ものだと思う。
かれらの末路をじっくり見守っていくつもりだ。
「無表情」というと、やっぱりこの書を連想してしまう。
東京の異常な暑さ(熱さ)に警鐘を鳴らしている傑作。