先月、5月10日のブログ「読書姦覚 ~『速読』」について思うこと~」の末筆で、「読書には段位がある」という呉智英の言説の概要を紹介した。
その原文を見つけたので、あらためて紹介する。
(自分にとって、読書は「ためになるから」というより「面白いから」つづけているのだ、という主旨の前段につづき)
しかし、中には、読書は面白くないと言う人もいる。早まってはいけない。読書には“段位”というものがあるのだ。やっと初段の人に三段や四段向きの本の面白さがわかってたまるか。それなら、三段になった時、読む本がなくなってしまうではないか。何段になっても面白い本があるからこそ、読書は面白いのだ。無段から有段に、初段から二段三段に、面白がりながら段位を上げていけばいい。
しかし、上位段者になってから初段向きの本を読んで、やはり面白いと思うことはしばしばある。『坊ちゃん』『嵐が丘』『罪と罰』などは、そうだった。そういう本を名作と言うらしい。
『知の収穫 ~時代のライブラリー~』 株式会社メディアファクトリー/1993.5.21初版第1刷 所収「読書昇段」より。初出は、岩波文庫用のパンフレット「私の一冊を求めて」(1989.4)
およそ500冊読むごとに段位が上がる、とはここには書いていなかったね。
でも、どこかでたしかにそのような意味のことを言っていたので、その別情報がおれの頭のなかで結びついていたのだろう。
この際なので、「500冊」に触れた原文も探してみようと思う。(少なくとも『知の収穫』のなかには見当たらなかった)
さて。
前回に引き続き、ごくごく気楽な些事について。
前回は、父親 VS 息子又は娘 だったが、
今回は、夫 VS 妻 である。
これも「約束」がらみで、よく登場するのが、「結婚記念日」もしくは「妻の誕生日」。
@さらさ
この日は仕事を早く終え、二人きりでお祝いのディナーを楽しもうという約束をしていたのに、あろうことが、夫のほうに急な仕事(とくに出張)の予定が入ってしまう!!!!
すまない。その日は一緒に食事ができなくなったと平謝りする夫に対し、妻がほとんど殺意を籠めて放つ定型句。
「私と仕事、どっちが大切なのよ!?」
しかし、ききわけの・・・、いや、がんぜない子どもとちがって、相手は「大人」だ。
言葉を選び、意を尽くして想いを伝えれば理解してくれるはずである。
だが、ここで夫は、言葉を選ばない。
意も尽くさない。
ただただ、黙る。
ドラマのなかで、このような場面に出っ喰わすたび、おれは、
「私と仕事、どっちが大切なのよ!?」と幼稚な批難を口にする妻にも腹が立つが、それに対し、有効な反論、または弁明、あるいは懐柔ができない夫にも歯がゆさを感じる。
ただ、
「なにを言ってるんだ。きみのほうが大切に決まってるじゃないか。仕事は、きみとの生活を守るための手段でしかないんだ」
と言えばいいじゃないか。
そして、補足的にこう説明する。
「しかし、仕事を優先しなければいけない局面も一時的にはある。ここで仕事に行かなければ、ボクは仕事を失うか、職場での立場を失ったりして、結局は、きみとの幸せな生活を守りきれなくなってしまう。だから、今回はたいへんすまないが、わかってほしい」と。
しかし、このように理路を尽くして妻に真意を理解してもらおうとする夫は、まずドラマには登場しない。
丸く収まらずに軋轢モードにならなければ、ドラマにならないということなのか。
だが、もっと簡単に解決する手段があるのに、それをしないで、わざわざトラブルを増幅させてしまうようなサスペンスの作り方はNGであると、かのディーン・R.クーンツ先生も『ベストセラー小説の書き方』のなかで言っている。
そのようなシナリオは、やはり書いてほしくない。
もっとも、ふだんから妻のことも家庭のことも心底顧みず、「私と仕事、どっちが大切なのよ!?」と憤懣を叩きつけたくなる夫は、ドラマのなかにも現実世界にも存在する。
だが、そういった「家庭にも結婚にも不向きな男」に対しては、「私と仕事、どっちが大事なのよ!?」という
問いかけ自体が愚問
である。
問いかけたところで、「私は大切に思われていない」ことを確認するだけで終わってしまう確率が高い。
ここに書かれているノウハウは、近年出版されている小説ではすでに常識(以下)になっているのではないかと思う。