第79回 森永卓郎『書いてはいけない』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

前回のブログ。「郷に入って郷を撹乱するものたち」のなかには、もちろん、日本に来て日本文化を破壊する不法入国者たちもふくまれる。


日本には歴史的に「異文化を取りこむ」「異文化を日本的なものに変容させる」力があるのだが、いまや日本人自体がすでに溶解しかけているので、果たして従来のように「変えさせる魅力」や「神通力」があるのかどうか、はなはだ心もとない。


ただただ、無体な狼藉にヤラレッパナシになってしまっている側面もある。


「情けない」というより、長い年月をかけて「情けなくなるように仕向けられてきた」という背景があるのだから、いまこそ、その「破壊しようとしてくる力」の存在を認識し、それに抗していく必要がある。
破壊しようとしているのは「外部」だけではなく、破壊を内側から幇助している共謀者もごまんといるから厄介だ。


やや抽象的な表現になってしまったが、日本を潰そうとする「戦争」が現在進行形であることは、終始念頭に置いておくべきだ。


そんな「内憂外患」の構造の一端を紐解き、検証し、批判しているのが、先日レビューを予告していた


森永卓郎著


『書いてはいけない』


である。

 

 




と、ここまで書いてふと思う。

前回、「本のレビュー」として投稿したのは2月2日。それも同じ森永卓郎著の『ザイム真理教』だった。
(その間、『ジーキル博士とハイド氏』も取り上げているが、おれのなかでは「レビュー」にカウントしていない)

図らずも、同じ著者の連続レビューとなってしまった。


ところで、これは著者本人も言及しているように、数々の出版社が出版に二の足を踏んだ内容なので、当ブログでも、本書の内容について文中そのままの固有名詞を使用したり、引用したりした場合、ブログが削除されてしまわないか不安である。


念のため、本書中のキーワードを一部伏字にしようと思うが、伏字にしても何を指しているかは瞭らかだろう。


さて。


本書で取りあげている「3つのタブー」は、各々おいて大問題であると同時に、すべて共通する問題点を孕んでいる。

 

(1)ジャ○ーズの性加害
(2)財○省のカルト的財政緊縮主義
(3)日○航空123便の墜落事件
 この3つに関しては、関係者の多くが知っているにもかかわらず、本当のことを言ったら、瞬時にメディアに出られなくなるというオキテが存在する。それだけではなく、世間から非難の猛攻劇を受ける。下手をすると、逮捕され、裁判でも負ける。
 だから、賢い人はそうした話題には最初から触れない。知らぬ存ぜぬを貫くことだけが、メディアに出続けるために必要なことだからだ。(P3「まえがき」より)

 

では、(マス)メディアに出る機会のない人間にとっては無関係の話なのか?
もちろんそうではない。


著者は同じ「まえがき」でつづけてこう慨嘆する。

 

 じつは、前述の3つのタブーに関しては共通の構造がある。
①絶対的権力者が、人権や人命や財産に関して深刻な侵害を行う。
②その事実をメディアが報道せず、被害が拡大、長期化していく。
③そうした事態について、警察も検察も見て見ぬふりをする。
④残酷な事態が社会に構造的に組み込まれていく。(P10)

 

真相を口にする人間はメディアに出られない。

    ↓

つまりメディアでは真相が語られない。

    ↓

そうなると、マスメディアのみが情報源の大衆は真相を知り得ず、大衆が、真相を語る人間を非難する方にまわる。


・・・という構造は、本書で取り上げている「3つのタブー」以外にも、まさにコロナ扇動・コロナ惑沈被害隠蔽についても同様だ。


また、副題(?)に「日本経済墜落の真相」とあるが、「墜落」はたんに「経済」のみならず、「文化」や「倫理」においても当て嵌まり、ひいては、日本人から「まともな思考」さえ奪っていく、

 

「知性の墜落」

 

でもあるわけだ。



ひとつめの「ジャ○ーズ」については、すでに2003年7月に東京高等裁判所が、ジャ○ー喜多川の性加害を認める民事判決を下している。その後、ジャ○ーズ側の上告を最高裁が棄却したため、2004年2月に高裁の判決が確定した。しかし、「マスコミが騒がなかったから」(P21)警察も動かず、本来あるべき刑事事件とはならなかった。


ところが、イギリスBBC放送が2023年3月にこの問題を報じたのを機に、元所属タレントが被害を告白する会見をひらき、10月3に東京新聞が自らの反省を含め性加害問題の報道を行った。それにつづき複数のメディア、論客がこの問題を取り上げはじめた。

未だ充分とはいえないものの、重篤なタブーのひとつが崩れたわけだ。これらの報道によって、性加害という「犯罪」が実際に存在したことや、その「犯行」の実態が瞭らかになったことと併せ、それまでメディアが口を噤んでいた事実や、その沈黙が被害を拡大させていた構造についても明白となった。


どれも、知っている人は知っていたコトではあるのだが、公然の秘密が公然の真相となった意義は大きいと思う。


本書では、実際にジャ○ー喜多川を批判したらその発言者が業界内でどういう仕打ちを受けたか。また、著者自身がジャ○ーズ事務所の大御所タレントKにサインをもらった際に事務所の関係者からどう脅されたか。そういった事例や実体験にも触れながら、当時の業界の歪んだ状況が紹介されている。
(たとえ共演者であっても、ジャ○ーズタレントからサインをもらうのはご法度だったらしい)


また、ふだん政治・経済ネタを扱っている報道局が、この犯罪を噂としては聞いていながら、格下の「芸能ネタ」ととらえていたために、本腰を入れて真相を究明し報道しようとしてこなかったというメディア側の弁明も報じられた。

 

著者はそのような「無意識の無視」という心理も報道員個々人においてはあり得るとしながらも、(保身のために長年口を噤みつづけていた)メディアの責任に関しては、ほとんど検証が行なわれていない。それどころか、いまだに『メディアの責任』に関しては事実上の言論統制が続いている」(P9)と批判している。

だが、ふだん政治・経済ネタを扱って上等ぶっているマスメディアの報道局が心底怖れて批判できないでいるのが、2つ目のタブーであるザイム・カルトの問題だ。


著者は本書において、前著『ザイム真理教』で展開したカルト教義と布教活動とその甚大な被害などについて軽くおさらいをしたあと、それがメディアでタブーとなっている理由そのものに新たな焦点を当てている。

メディアがザイム省をおおっぴらに批判できない大きな理由は、ザイム省の手先である国税庁が、ザイム真理教の「異端」に対する懲罰(いやがらせ)に赴いてくるからだ。

産経新聞の編集委員兼論説委員であり、著者が「大手メディアのなかでもっとも的確に経済を分析し、忖度せずに発言を続けている」(P93)とする田村秀男氏に著者が、
 

 

「田村さんのところには、財○省はご説明攻撃にこないのですか?」と聞いた。田村氏は「一度、数人の財○官僚が産経新聞にやってきたことがあった」と答えた。ところが、田村氏は、そのご説明を自ら頭に叩き込んでいるデータをもとに完膚なきまでに否定してしまったそうだ。いかにも(著者が尊敬する)田村氏らしいエピソードなのだが、その直後、産経新聞には税務調査が入ってきたそうだ。(P94)

 

ここでいっている「ご説明」とは、財政緊縮と増税を是とするザイム教の布教活動のことであり、また、税務調査の末に理不尽な追徴税を課せられたのは、もちろん産経新聞だけではない。この税務調査なる権力の濫用は、「教団」の常套手段なのである。


また、「歴代総理のなかで唯一『反財○省』のスタンスをとった元安倍晋三元総理」(P104)は、森友学園問題で罠に嵌められ、結果的に辞任に追いこまれた。また、命令によって決裁文書の改竄を行なった近畿財務局職員が鬱病を発症したのちに自○した件に関しても、ザイム省に情報開示を請求した妻の切なる訴えを、地方裁判所がまったく理由になっていない判決理由で却下した。


つまり、全省庁の予算を握るザイム省は、司法・立法の上に立っているというわけだ。


先に引用した「まえがき」の言葉、「下手をすると、逮捕され、裁判でも負ける」というのは、司法さえもザイム省の支配下にあるということである。

早期の「解体」が望まれよう。



さて、日○航空123便の墜落事件は、「ジャ○ーズの性加害」や「ザイム省のカルト的財政緊縮主義」よりも圧倒的にダブー色が濃い。

 

 


「事故」ではなく「事件」と記しているところにも真相の一端が垣間見えるが、この事件の真相が公になった場合の衝撃と影響は、前の2件を凌駕するだろう。


想像してみるとわかるが、性加害の実態が瞭らかにされ、性加害を取り巻いていたメディアの構造が刷新された場合、被害者たちにはいくばくかの「救済」が訪れる。また、ザイムカルトによる洗脳が解かれた場合も、「これまで意味のない増税で苦しめやがって!」という憤慨の声はあがるだろうが、それ以降、経済は回復・是正にむかうことだろう。


だが、1985年8月に起こった、日○航空123便の墜落事件の場合は?


真相がマスメディアで報道され、その全容が公知になった場合、世間には政府・官僚、そして自衛隊に対する轟々たる非難・問責が噴きあがることになるだろう。


「救い」がない。


隠蔽に関わったものたち、少なくとも隠蔽工作を命じる立場にあったものたちは、まさに「永遠に許されざる者」として糾弾され、そして、遺族の悲憤と怨嗟はさらに深まるにちがいない。

多くの資料・目撃情報・検証から導き出される経緯は次のようなものである。

きっかけは「ミス」だった。

「非炸薬ミサ○ル」「無人標的機」を、自衛隊が訓練中に誤って123便の尾翼に当ててしまった。その衝突によって油圧系統が破壊されたが、123便にはまだ飛行能力が残っていた。その時点では乗客への物理的な被害もない。


しかし自衛隊が民間機を誤って「攻撃」してしまったという事態は、絶対に知られてはならなかった。当時の状況では、知られたら政権が転覆する。そこで横田基地に緊急着陸しようとした123便の着陸許可を取り消した上、不時着場所を求めて北上する123便の「口を塞ぐ」べく戦闘機で追尾し、あろうことかミ○イル攻撃によって群馬県の御巣鷹山中に墜落させた。翌日まで墜落場所をあきらかにしなかったのは、乗客乗員全員の「口封じ」が完了するまでの時間稼ぎのためだった。


推察される「口封じ」の具体的な法についてはここでは触れない。(本書のなかでは触れている)


ただ言えるのは、生まれ落ちたばかりのキリストを亡き者にすべくベツレヘムの乳幼児を37564にしたヘロデ王や、女子生徒との淫行を目撃されたかもしれないという瑣末な理由でクラスの生徒全員を散弾銃で37564にした『悪の経典』のサイコパス教師を凌駕する、悪逆非道なる鬼畜の所業が断行されたということだ。



運輸省航空機事故調査委員会による公式発表では、墜落「事故」の原因は、飛行中の圧力隔壁の損壊で、ボーイング社の修理の不備によるものであるとしている。あらゆる点から、これを事故の原因とするには不合理だったが、政府もマスメディアも、トップ中のトップ・シークレットとして、いま現在もひた隠しにしつづけている。(例外のひとつが、1994年9月25日放映のテレビ朝日「ニュースステーション」)

この日○航空123便の墜落事件を機に日本経済が墜落に転じた理路として、森永卓郎は、以下のようにシンプルな見立てを述べている。

 

日本政府は日○123便の墜落の責任をボーイング社に押し付けたことになる。ボーイング社の顔に泥を塗ったのだから、大きな見返りが必要になる。それだけではない。日本政府はそのことがバレたら、政権が確実に崩壊するほどの大きなウソをついてしまった。だから、アメリカに「123便のことをバラすぞ」と脅されたら、なんでも言うことを聞かざるをえなくなってしまったのだ。(P177)

 

いうまでもなく、ボーイング社は軍産複合体のネオコン企業だ。

いわば、ヤ○ザの面目を潰したといっても過言ではない。

(むこうからすると、その後の見返りを計算して、わざと潰させてやった、というのが正解だろう)

 

その後のアメリカからの無理難題の押しつけ。日本墜落の致命傷となった「プラザ合意」や、それを因とする「半導体協定」や「バブル」も、123便の事件がきっかけとなったのだ。


最後に、かつて森永卓郎と出版社の編集担当者が交わした会話内容を紹介したい。


森永卓郎は、123便事件の真相に真っ向から取り組んだ『日航123便 墜落の新事実』(2017年7月出版)を書評によって紹介しようとした。

 

著者の青山透子氏は「事故」当時、日本航空で働いていた客室乗務員。「事故の真相を探ろうと、あらゆる文献を収集整理し、目撃者証言を集め、いわば人生をかけた調査に取り組んできた。」(P137)

日航退職後に東京大学の大学院で博士の学位も取っている。

 

にもかかわらず、真相を述べようとする者をマスメディアがいかにして封殺するか。

 

その具体的な事例として、少し長くなるが引用する。
 

(前略)私はこの本をできるだけ多くの人に読んでほしいと考えた。そこで大手新聞社系の雑誌に書評を書くことにした。
 私の書評は、新事実が示す事態の深刻さに加えて、この本が論文並みの厳密さを持っていて、陰謀説ではけっしてないということだった。(P138)

 

だが、印刷所に原稿を入れる最終締め切り時刻に編集部のデスクから連絡が入る。

 

 

「森永さん、原稿のなかで、著者の青山さんは東大の大学院で、博士論文も書いていると主張していますよね。その裏は取りましたか?」
「書籍の奥付に書いてあったと思いますよ。でもなぜそんなことを聞くんですか?」
「じつは、こちらで論文検索をかけたんですが、青山透子という人の論文が出てこないんですよ」
「そんなの当然じゃないですか。青山透子というのはペンネームですよ。ペンネームで論文を提出する人なんていませんよ」
「森永さんは論文を読んでいないということですよね。だったら、こうした記述は掲載できないんです」(P139)

 

結果、「編集部が用意した、大事な部分を丸ごと削除した書評原稿」(P139)が掲載されてしまうことになる。


仮に、森永卓郎が、青山透子というペンネームを持つ博士の書いた論文自体を読んでいなかったとしよう。

しかし、その何が問題なのか。


博士の学位を得ているのだから、当然博士論文の執筆は必須だろう。論文が無いということはあり得ない。

また、森永卓郎にしても他の人の博士論文くらいは読んだことがあるだろうから、『日航123便 墜落の新事実』が(一般的な)博士論文並みの厳密さを持っていると評したところで、事実に反するわけでもない。


「論文」というキーワードを逆に利用した恐るべきいいがかりなのだが、「真」か「偽」かなどどうでもよく、とにかく保身、とにかく利得という「正義」も、とくにマスメディアには存在しているわけである。

 

 

 

 

以下は、『書いてはいけない』のなかで紹介されている123便墜落関連の書籍

 

 

 

 

 

『遺物は~』において、乗客乗員全員の「口封じ」の模様が解説されている。