今年になって、職場で体調不良を訴える同僚がさらに増えた。
1ヶ月に1回は高熱を出し、1回休むと4~5日会社に出てこられないという社員もいる。
そこまで体調を崩す同僚たちは、例外なく「ブースター接種者」である。
すでに現在のおれは、自身が「非接種」であることがあたりまえになってしまっているが、「非接種」というのは、決してあたりまえに得られたものではなく、静かな”戦争”のなかで「勝ち得た」勲章であると考えてよいと思う。
そのくらい、2021~22年ごろまでの同調圧力は(大戦中のスローガン並みに)強力だった。
接種しない人間は、愚・悪・醜の権化のように言われた。(マスクをしていないだけでも同じように見られたが)
あのころ”猛威”をふるった「他人に感染させないためのワクチン」という「偽情報」を前提として思考した場合、非接種者は「身勝手で」「思いやりがない」「愚かな」輩であり、挙句の果てに、非接種者が感染しないのは、接種者がリスクを冒して獲得した免疫のおかげだという理屈までがまかりとおった。
「おまえが感染しないのは、おれら接種者による集団免疫のおかげだ」
「おまえはただ乗りをしてるんだ!」
という理屈と批判。
この批判の破壊力はすさまじかったが、それでも接種を避け、「非接種」の栄誉を得られたのは、個々人の有する、なんらかの「特性」ゆえである。
その特性は、その人の半生のなかでいかにして培われたのか。
なかには、みずからの判断ではなく、身近にいる人間の「接種してはいけないよ」「しないほうがいいよ」という言葉によって、結果的に接種しなかったという人もいるだろう。
現におれの家族や、(故郷にいる)母などは「○○(おれの本名)に言われなければ確実に打っていただろう」と言っている。
その他、迷っていたがおれの言葉で接種を止め、「あのとき接種していなくてよかった」と胸をなでおろしている人も複数いる。
だが、その種の非接種者にしても、「信念を以って接種に反対する者」と縁があったという「特性」を有していたということであり、さらには、世間の流れよりも、「接種するな」という忠告の方が腑に落ちて素直にしたがった、という「特性」があったとも言えるのだ。
せっかく、信念を以って接種に反対する者と縁があっても、その縁を活かしきれず、反対を押して(世間の意見に従って)接種してしまったという場合も少なくない。
それを考えると、
非接種者たちは、
みずからの「特性」を活かし、
偽の理屈に騙されることなく、
さらに批判の嵐に屈することなく、
よくぞ耐えました!!
と思います。
※フォローしている「新・新米社長の備忘録」をリブログし、想うところを、ほんの少しコメント的に述べようと思っていたのだが、話題が話題だったため、つい長くなってしまった。