違和感&不快感を見詰めて ~ あるいはジャンキーでいっぱいの街 ~ | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

 

おれは読書も好きだが、落語も好きだ。

テレビなどで観るのもいいが、やはりライブが一番楽しい。
それほど頻度は高くないが、好きな噺家が出る公演だと、都合がつく範囲で足を運ぶ。

会社を定年退職したら、新宿の末広亭や、上野の鈴本演芸場とかに朝から入りびたってすごそうかと夢想しているほどである。池袋演芸場でもいいかな。(もちろん、そこまでの往復の電車のなかでは読書だ)


去る昨年12月は、「大所沢寄席」という公演のために、遠路はるばる埼玉県所沢市の文化センターにまで足を運んだ。

所沢市には個人的にちょっとゆかりがあるので、これまでも「所沢寄席」にはよく行っている。
 

 

 

30周年の記念公演だけあり、8組の演者はもれなく達者。ここで「粒ぞろい」という表現をすると失礼になるのかな?(大御所を「粒」扱いすることになるので)

 

柳家権太楼、柳家喬太郎、古今亭菊之丞、三遊亭兼好は有名どころで、かつ、以前から好きな噺家である。

桂宮治は「笑点」に出演しているので一般的にも有名だと思うが、本業の落語も文句なく面白い。
(このような公演では、ふだん落語に触れていない客を寄せるために、実力はともかく「有名な」噺家を一人参加させるのが定番だ。桂宮治は有名で、かつ実力もある)

林家二楽による「紙切り」は、すでに様式美的な面白さ(安定感)があるし、漫才のおぼん・こぼんは、かつての鉄板ネタとともに、長年に亘ってお互い不仲である(あった)ことを思う存分ネタにしていた。これが現在の鉄板ネタなのだろう。

驚いたのは、真打昇進を2025年に控えた立川吉笑全国的には無名に近い(おれも知らなかった)現在「二つ目」の落語家なのだが、たぶん他に類例がない超絶テクニックを駆使した新作で聴衆の度肝を抜いてくれた。

今後も注目していこうと思う。


ここまで、所沢寄席の出演者を軽くレビューしてみたが、ここからが本題だ。


年末年始の数日間自宅に籠もり、仕事始めに通勤のために電車に乗ると、「歩きスマホ族」が、昨年末までよりさらに増えているのではないかと感じて、暗澹たる気分になってしまう。

 

@ユルエ

 

スマホを見ないで歩いている人のほうが少数派なのではないか、と思うほどだ。


異常だよ、異常。

 

異常、かつ滑稽だ。何かのパフォーマンスかパロディかとも思ってしまう。


ただ閲覧しているだけなら、さすがに異常扱いまではしないが、おれの(自主的な)基準としては・・・、



スマホを見ながら(見詰めながら)、

・電車に乗ってくるひと、および、電車から降りていくひと。

・自転車・自動車を運転しているひと。

・狭い通路をのろのろ歩いているひと、および、急に立ち止まるひと。

・急に方向転換して他人にむかっていくひと。


 

などを、はっきり「異常行動」と見なしている。


あと、「見ながら」というより、「スマホを見ていない状態が居心地悪そうなひと」も、それに加えてよいかと思う。

いちおう電車に乗るときにはスマホから眼を離し(微妙に混んでいるので、そうしないと他の乗客にぶつかる)、立ち位置を確保してからふたたびスマホを閲覧しはじめるのだが、その動きが、まるで「スマホが見られなかった数秒間」に憤慨しているかのようなのだ。腰のあたりまでいったん下げていたスマホを、まるでひったくるように顔の前まで持っていく。


少し前に投稿したブログの表現を使うなら、実生活(リアル)が「実」で、スマホは「虚」のはずなのだが、それが見事に逆転している。そういうひとたちにとっては、スマホを見ていない時間のほうが「虚」なのだろう。

 

どこまで「虚」に支配されているのか。


ゲームをしながら、SNSをしながら、(フェイク)ニュースを見ながら、という輩は以前からいたが、最近目撃したのは、「ネットショッピング」をしながら駅のホームを歩いていた若い女だ。いま、この瞬間に買わなくちゃならないのか? よっぽど「売り切れ」が心配だったのだろう。


おれは、「異常行動」に近い歩きスマホ族を、勝手に心のなかで、


スマホ・ジャンキー


と呼んでいる。


非難・批判はしながらも、「ジャンキーなんだから、もはや処置なし」と思っている。言っちゃ悪いが、「手○をおぼえたサルみたいなものだ」と解釈し、矯正はもはや不可能だと想っている。


繰り返しになるが、スマホ歩きにともなう衝突や転倒などの「物理的な危険」のことだけを言っているのではない。「スマホ歩きをしていても平気」という思考や感覚そのものが危ないと言っているのだ。そのピースフル・ハイ(平和ボケ的)なエゴイズムは、スマホ歩きとは関係のない局面であっても、いずれどこかで他人や自身を損なうだろう。

 


@MakeWaon

このニックネームについて異論のあるスマホ・ジャンキーの方は、どうぞ反論していただきたい。




・・・・・・。


さて、ここで個人的な「不快感」をフルオープンにしたところで、冒頭で述べた落語につなげる。


当日の出演者のひとりの柳家喬太郎が、「枕(前段)」のときにぼやいていた。

会場となった「所沢市民文化センター ミューズ」の最寄駅は、西武新宿線「航空公園」駅。
案内では徒歩10分とされているが、寒風のなか歩いていると、それ以上に長く感じる。

その点を喬太郎が「どの駅からも中途半端に遠い」と「ディスって」笑いをとっていたのだ。
そもそも、所沢の公演の場合、演者たちが所沢(埼玉県)を僻地・田舎扱いすることが、従来からのネタになっている。

「どの駅からも」と言っていたことに対し、周辺の位置関係に疎いおれは、「徒歩圏内の駅が他に何箇所かあるのかな?」と思って聞いていたのだが、あとで地図で確認すると、隣の所沢駅や新所沢駅からだと、かなり離れている。歩くのはけっこう辛いと思う。


あとから想ったのは、この「中途半端に遠い」という視点。

おれも駅から歩いていて、「会場はあそこの建物かな?」と思ったら、それが会場の手前の警察署だったりして、たしかに心理的に遠く感じる。(喬太郎は脚が悪いみたいなのでなおさらだとは思うが、実際は駅からタクシーで来たようだ)


ともかく、不快感を「可視化」し、きっちり芸(ネタ)として昇華させる落語家の感性。
それは社会的には「ワガママ」と呼ばれるのかもしれないが、反面、自分の感性に忠実だとも言える。

たとえ少々遠くても「こんなものかな」と黙々と耐え、そういった微細な不快感を意識に上らせないことも(日本人特有の)ひとつの美点なのかもしれないが、ここで不快感を言語化することは、たとえ不快感をメシの種にできる職業でなくても、大切にすべきなのではないかと思う。


スマホ・ジャンキーという「DQN」は、もはや論外。
しかしそれを見ながら、「しかたない」「他人は他人」「別にいいんじゃないの~」と自分を納得させ、自分を「理解ある人間」として脳内変換し、不快に思うことから逃げている弊害もあるのではないか。


それではまるで、接種への疑念が芽生えはじめている接種者が、裡なる違和感を黙殺し、急増する「惑沈SHI」を意識に上らせないようにしているのと同じである。


今年に入ってからの違和感といえば、1月2日の日航機・海上保安庁機の「事故」だよな~。
あの「延焼」の経緯と「焼失」の結果。

「乗客」を全員無事に「避難」させたことが事実なら、たしかに世界から賞賛されるべき「美談」になるんだけど・・・。
 

本当に海保機と衝突したのか? 本当に、それは乗客だったのか?


また、おれが個人的に何年も前から抱きつづけている、今年の箱根駅伝の優勝校に対する違和感。(これについては、いずれ機会を設けて触れてみたい)


米大リーグ野球に関する過剰報道。

 

 

ジャニーズ問題の報道に便乗したかのような芸能人への「性加害」過剰報道。


あと、目白の田中邸の「火災」。


なにより元旦の「能登半島地震」。


今年はアメリカ大統領選が控えている。選挙の行方は、大袈裟ではなく今後の世界情勢を左右する。それもあって、今年は多くのことが暴露され、白日のもとにさらされる年となるだろう。


その手始めが「エプスタイン」だ。
凶悪な女衒のギレーヌ・マックスウェルも獄中でSHIぬのか?


COVID-19関連の真実もさらに暴かれていくとは思うが、日本のマスメディアは、

「真実の波」を遮る「防波堤」

 

 

シープルたちはその悪しき「防波堤」に「守られ」ながら、しばらく「見ざる」「聞かざる」をつづけるだろう。


暴露にともなう一時的な混乱も覚悟しつつ、今年も昨年にひきつづき、いや、それ以上に、「不快感」「違和感」を意識化し、脳内で言語化していくつもりである。


あらためて、今年もよろしくお願いします。

 

 


昨年以前も今年も、マスメディアが大々的に報道する「問題」には、ほとんど例外なく裏があると見ていいと思う。

現在のマスメディアが報道しているのが「暴露」なのか、それとも、あいかわらずの「隠蔽」「ミスディレクション」「サイオプ」なのか、見極めが難しい。

 

締めで、ショージ・サエキさんのブログより。↓