コロナなるもの ~その32「マスクの効能 そして塞がずには生きていられなくなったひと」 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

マスクをするひと、また増えてきたね~。


電車やバスのなかでの着用率が確実に上がってきている。


おれが通勤で利用している電車に限っていえば、着用している乗客が過半数を超えているのではないかと思う。ホームでははずしていても、電車に乗りこむときに着用する、というひとも多い。

暑さのためにマスクをはずしていたひとが、気温の下降につれて、またマスクを着用しはじめた、ということなのかもしれない。

できれば着用すべきと考えながらも、暑さに耐えられなくて渋々はずしていたひとたち。

でも、はずしていた期間、なにか不都合があったのだろうか?
はずしたら覿面(てきめん)に感染した? 発症した?

もし、マスクをはずしたら即、感染するような怖ろしいウイルスならば、暑い時期でも「暑いからはずしていた」という

 

人間の都合や感覚とは無関係に罹っていたはず

 

でしょう。

でも、はずしていた期間に罹らなかったのなら、「マスク着用は不要だ」ということをこの際に学んだのではないか、と思うのだが・・・、学ばなかったのかな。



ところで、マスクの効能について、ひとつ気づいたことがある。

マスクは必ずしも無駄ではなかった!!

きちんと「効能」があったのだ!! と最近になって気づいてしまった。


電車内やバス内、あるいは道の通行時、無神経な振る舞いで不快をもたらしてくる輩は尽きることがない。それにたいして、おれは常々苛立ち、憤慨している。加えて、なぜこんな振る舞いをして平気なのだろうと、その心理にあれこれ考えを巡らせて疲れてしまう。


だが、最近は無神経なひとに遭遇しても、そのひとががっちりマスクを着用していたりすると、

「ま、仕方ないか」

と思って納得してしまうのだ。

相手にどこかで、ほんのちょっぴりでも期待しているからイライラするのであって、マスクをしているひとに期待してもしょうがない、と即座に思ってしまうわけである。

これは間違いなくマスクの効能と言っていい(だろう)。
しかも(かれらの大好きなフレーズである)「他人のため」になっている効能なのだ。


ただし、マスクを着用しているからといって、即、「仕方ないひと」だと言っているわけではない。

コロナ感染対策とは別の理由で着用しているのかもしないし。


そうではなく、「無神経な振る舞いをしているひと」がマスクをしていると、「ああ」と納得してしまう、という順番である。
根底にある批判の対象は、あくまでも「無神経な振る舞い」のほうなので、誤解なきよう。


・・・・・・。

さて、マスクによって口を塞ぐだけではなく、最近はとにかく、

 

「どこかを塞いでいるひと」

 

が多くなった。


もっとも目立つのは、やはりイヤフォンによって耳を塞いでいるひとである。

それともちろん、スマホを見ることによって視界を塞いでしまっているひとも。


1点塞ぎ、2点塞ぎ。

 

すべてをそろえた3点塞ぎのひともいる。


このブログでなんどか言ってきたことなのだが、これらの行為は、スマホからの情報、イヤフォンからの聴覚情報を意図的に求めているというに留まらず、視覚と聴覚を塞ぐことにより外界の情報をシャットアウトすることを目的としているのではないだろうか。


つまり、デバイスからの情報収集を優先したあまり外界が疎かになっているのではなく、むしろ、外界と関わりたくないがために、あえてデバイスで感覚器官を塞いでいるのだ。

周囲の音が「うるさい」から耳栓代わりにヘッドフォンを装着する場合と同様である。

問題は「うるさい雑音」が何なのか、ということだ。


ともかく、そのひとはあるとき気づいてしまったのだ。
スマホを見ていれば、周囲の人たちに気を遣わなくてもいい(ような気がする)ことに。
スマホが「免罪符」になることに。

かつて紹介した、正面から大勢の人が押し寄せてきたのを認めてからスマホを取り出したひとの事例が、その心理の傍証となるだろう。

もっと細かな心理まで突っつくと、そういうひとたちには、どこかで「スマホを操作(閲覧をふくむ)している自分はすごい」「スマホから情報を得ていることは偉いことだ」という意識が(いまだに!)あって、その流れで「スマホを見てるんだから周囲に気を遣えなくても仕方がないでしょう」という心理が働いているように思われてならない。

そのようなひとにとって、スマホ操作の優先順位はきわめて高い。


スマホからの情報 > 周囲からの情報、と無意識の裡に考えている。

換言すると、日常の数々の行為のなかで、スマホ操作の意義がかなり「上位」に位置しているということだ。

例外はあり、情報収集の「天才」には当て嵌まらないかもしれないが、人混みのなかで歩きながら得られる程度の「情報」など、たいてい碌なものではないと思う。寸暇を惜しんで情報を得ているように見えて、じつは大した情報を得ていないことは、まさにその本人の「スマホ歩きという行動」の愚かさが証明しているではないか。

以上、スマホをイヤフォン(とくにワイヤレスイヤフォン)に置き換えてもほぼ同じことが言える。
たしかに、人混みのなかを歩くというだけなら、多少聴覚を塞いでも、視覚を塞ぐよりはマシだと思うが、なかにはイヤフォンを装着して自転車に乗っているデンジャラスな輩もいる。

 



 

 

走る場所にもよるが、イヤフォンを嵌めてのジョギングだって危ないと思う。


これまではコードの煩わしさもあって装着しなかったような場面でも、ワイヤレスだと平気で装着してしまう。自転車や電動キックボードだけではなく、ワイヤレスイヤフォンを装着して自動車を運転しているという不届きなスットコドッコイの存在も複数回目撃している。

そういうひとたちにとって、「デバイスからの情報」と「周囲のリアル情報」との優先比率はどれくらいのものなのだろう?

後項より前項が高いことは確実だろうが、6:4? それとも、8:2くらいだろうか?
なかには10:0という場合もあるかもしれない。

後項の値が低ければ低いほど、そのひとにとっての「社会」は薄いものとなっていく。
感覚器官を塞いだがために「社会」と疎遠になるのではなく、自分を「社会」から切り離すために感覚を遮断するのである。

いや、その本人にとっては、別に社会を切り離しているつもりはないかもしれない。

そのひとは、「自分に確実に益をもたらしてくれる社会(金づる)」とは、密接な関係を構築しているのかもしれない。だが一方で、「自分に益をもたらさない社会、つまり、通りすがりの人間・風景等(以下「社会」という)」には、一文の価値もない、意識をむける必要はない、とも考えている。

そう考えるのは自由だが、その近視眼的な「損得勘定」が、長い眼で見たときに本当に引き合うとは限らない。

「好きな音楽」を優先するあまりイヤフォンを装着して自動車を運転する危険性は、ほとんど誰にでも判るだろう。だが、「社会」を認識から切り離して無視する危険性も、イヤフォン運転の危険性と同根だとおれは思う。


言い換えると、

 

「社会」の存在を無視することは、「社会」を呪うこと

 

に等しいのだ。

 

本当にくだらないもの・ことなら無視したほうがいい場合もあるが、この場合の「無視」は、ニアリーイコールで「呪い」であろう。

無視が呪いにつながることは、デバイスによって「社会」を切り離そうとしているひとの心理に感情移入してみるとよく解るし、いわゆるイジメの「シカト」を思い浮かべれば、さらに理解できるのではないだろうか。



デバイスによって意図的に感覚を塞ぐ

 

 → 周囲の情報を遮断する

 

 → 「社会」を無視する

 

 → 「社会」を呪う、なのである。

 

 卒論は「ハメット=チャンドラー=マクドナルド派に於けるストイシズムの研究」である。大学院に残り、アメリカ文学を専攻する。
 休む事ない暗い怒りは、ますます烈しく彼を駆りたてる。何かを憎悪していなければ生きていられなくなっていた。
 犯罪、特に殺人には生命の昇華がある。
 それを守るためには全力をおしまぬ人命を、あらゆる捜査の目をくらます巧みな方法で、冷静に奪いさる行為には一種の非情美がある。


これは、森村誠一によってエンタメ小説に目覚めたおれが、森村誠一の次に傾倒した大藪春彦の『野獣死すべし』の一節、若き伊達邦彦の描写である。

「何かを憎悪していなければ生きていられなくなっていた」


スマホとイヤフォン、そしてマスクによって、どこかを「塞がずには生きていられなくなった」ひとたち。それは(悲観的に考えれば)社会を呪わずには生きていられなくなった、ということである。


常々「人を呪わば穴ふたつ」ということわざを肝に銘じているおれからすると、その心理は剣呑きわまりない。


英語のdeviceには、一般的な「装置」という意味のほかに「爆弾」「爆破装置」という意味もある。
なにやら象徴的ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 


優先順位の崩れが「狂い」につながるということを教えてくれている書。
以前(2010年12月)のブログでレビューしている。

 

 

2015年以前のブログは、現在とはちょっと別の「ノリ」で書いているので、読み返すとかなり恥ずかしい(当時は「仲間内」で読み合うことを前提にしていたところがある。「Fくん」とか「Mくん」とかと書いているのがそうである)。
まあ、2022年以降の文章も読み返すと恥ずかしいのだが。

 

 

ところで、おれの「危険」に対する感覚は、大藪春彦によっても培われた、と思う。
 



若い伊達邦彦(大藪春彦)が理想郷として想い描いていたコミュニズムは幻想にすぎず、実際の共産主義の怖ろしさはすでに歴史が証明している。小説家・大藪春彦がそのことを充分理解していることは、大藪春彦が求めた「個人の絶対自由」が共産全体主義とはまったく相容れないものであるという事実からも判る。