第67回 川本晃司『スマホ失明』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

公共の場所の多くで、今月13日からマスクの着用が基本的に「個人の判断」となる。

 

 

 

 

すでに「個人の判断」で、駅構内も電車もバスも、コンビニもスーパーも飲食店もノーマスクで出入りしているおれからすると、「なにをいまさら」と思うほかは、なんの問題もないお達しだ。

もっとも、「個人の判断に委ねる」という告示自体が、これまであたかも「個人の判断を制限するルール」が存在していたかのように錯覚させるトリックでもある。

今後、さまざまな局面で「洗脳されない」「印象操作されない」ためには、この点にもっとこだわるべきなのかもしれないが、まあ、これをとりあえずはポジティブにとらえようと思う。

この告示を端緒に、多くの人が伸び伸びと過ごせるよう、もっともっと「個人の判断に委ねる」場所・範囲がひろがってくれればいいと思う。

だが、信じられないことに、それを問題視するひとが少なからず存在する。

ひとつは、例によって「マスクを外す人が増えたら感染が拡大する」と怖れているひとたちだ。
これは、3年前から1ミリメートル四方たりとも視野がひろがっていないひとで、純粋に感染が怖く、かつ、マスクに感染防止効果があると考えている。

このような罵裸悶たちは、「感染者がゼロになりました!」「コロナは終わりました!」という正式なお達しが出るまで、たとえ5類相当になろうと、これからも“個人の判断で”マスクを着用しつづけるだろう。

一方、感染そのものを怖れているわけではなく、あいかわらず「濃厚接触者」の発生に囚われつづけているひともいる。

これは、自分が管理する「場」に於いて、なによりも濃厚接触者が発生しないことを3年以上に亘って最優先事項としつづけてきたがゆえの(歪んだ)懸念であろう。

おもにこのようなひとのなかから、「個人の判断に委ねるなんて政府の責任逃れだ!」と、声高らかに糾弾する声が聞こえてくる。

「委ねる」という言葉に過剰反応しているのだろうか。

これまでの場当たり的な方針からそういう印象を与えてしまっている政府にも非はあるが、もともとマスク着用など、個人の判断に委ねられるべき最たるものだ。

政府が(責任逃れだろうとなんだろうと)「個人の判断に委ねる」と告示しているのだから、謹んで言質をとらせていただき、個々人の判断に委ねればよいだけではなかろうか。

政府の告示を責任逃れだと糾弾しているひとは、その自分の思考こそが、まさに「責任逃れ」であることに気づいていないのかもしれない。どこまで「ラスト・ペンギン思考」が染みついているのだろうか。

「濃厚接触者発生対策」がすでに骨の髄にまで強迫観念として浸透しまっているのかもしれないが、しかし状況は変わるのだ。この「濃厚接触者という謎ルール」が無くなれば(あるいは、濃厚接触者の条件にマスク着用が関係無くなれば)、個人の判断に委ねてもなんら問題はないはずだ。


かように、コロナ騒動を通じてすっかり視野狭窄になってしまったひとは少なくないが、心や認識に留まらず、まさに肉体的な「視力」が損なわれているケースも発生している。

その非常事態に警鐘を鳴らしているのが、

川本晃司著『スマホ失明』だ!

 

著者は眼科専門医の医学博士で、眼科クリニック・かわもと眼科の院長。併せてMBA(経営学修士)も取得している。

衝撃的なタイトルゆえに「何を大袈裟な!」という拒絶の反応が返ってきそうだが、これはスマホ(以下、スマートフォンというべきところを、すべて「スマホ」に統一する)の普及が、特に子どもの近視を爆発的に増加させ、それが強度近視 → 失明の原因となる眼の疾患につながっていくという。

つまり、将来の失明予備軍である強度近視患者の増加の大きな要因が、スマホをはじめとしたデジタルデバイスであると考えられるのだ。

開巻早々、「ある高校生に起こった悲劇」として、ショッキングな事例が紹介される。

 

要約すると、スマホを超長時間見詰めつづけることが習慣となっていた16歳の男子高校生が、強度近視に加え、「急性内斜視」を併発し、両目で見ると物がダブって見える複視となった。近業を控えることによって多くは元どおりになるのだが、このケースの場合、近業があまりにも長期間に亘ったため、結局元にはもどらず、「社会的な失明」に陥ってしまったという。

ここで「社会的失明」という言葉が出てきた。

著者は失明に3種類あると考えている。

 

❶「医学的失明」
「まったく見えない状態」「いわば真っ暗闇の中で生活する全盲のイメージ」

❷「社会的失明」
「矯正視力(メガネやコンタクトを使用したときの視力)が「0・1」を下回り、社会生活を送る上でさまざまな不都合が生じる状態」「文字情報を得ることが困難になり、新聞や本などは読めなくなります。」「街中の交通標識や飲食店の大きな看板さえも判読できない状態」「当然、車の運転免許も取得できません。」「現代社会において、人の活動が大きく制限されます。」

 ❸「機能的失明」

「疾病などで一時的あるいは部分的に見えないことで、社会的に「見えない人」として扱われる状態」「病名としては緑内障の他、眼球運動障害、眼瞼けいれんや重症のドライアイ」

 

 先ほどの男子高校生の場合は、盲目になったわけではないので、❶「医学的失明」では ありません。
 しかし、複視により細かな文字情報などを得ることは困難で、この先、運転免許も取得できないと思われることから、❷「社会的失明」に該当します。
 また、(中略)❸「機能的失明」にも該当するでしょう。 
 人生100年時代という超長寿時代を生きる彼が、わずか16歳の若さでものがダブって 見える病気を発症したことは、残り80年の人生の質を、これほどまで大きく下げるのです。

 

おれはこれまで「失明=盲目」というイメージをいだいていたが、盲目ではない失明もあり得ることをこの著で知った。

(言われてみればもっともなのだが)

いずれにせよそれらの「失明」の引き金となるのが(強度)近視であり、近視が激増し、かつ強度近視への進行が早まっている主な原因として、スマホの長時間使用、あるいは幼年期からのスマホ使用が考えられるというわけだ。

 

 ところで、彼はなぜ、これほど症状がひどくなるまで放置してしまったのでしょうか?
 実はこの男の子は、目の不調がひどくなるにつれ、「原因はスマホではないか」と薄々感じていたそうです。
「でも、そのことを親に言ったら、スマホを取り上げられてしまうかもしれない……」
 そう考えて、本格的に見えなくなるまで黙っていました。

 

親に言うか、言わないかのまえに、そもそも「スマホの使用を控えてみよう」という選択肢がこの子になかったことが残念だし、そこに、スマホの強烈な中毒性が窺える。

筆者は「失明カスケード」という言葉を使っているが、この子に限らず、おれから見ても、多くのひとがさまざまな角度からスマホにからめとられ、まさに「スマホの蟻地獄」に墜ちているように思えるのだ。


近視となる主な要因は長時間の「近業」だ。
もちろん、近業には読書もあり、テレビもあり、パソコンもある。しかし、スマホのように小さな画面を見る際は、よく見ようとして、さらに距離が近くなる。
 

 ちなみに、目との距離はパソコン画面ならだいたい40cm、本なら30cm、スマホなら20cmというのが、一般的です。目から20cmという超近距離で見るスマホの世界的な普及が、近視人口の急増に拍車をかけていると考えられるのです。

 

2008年に日本でスマホが発売されたのと歩調を合わせて近視患者が増加。それが、2020年からの「巣ごもり」でさらに激増しているという。
問題は子どもばかりではない。成長期をすぎた大人の「眼軸長」が伸び、それによる近視もあきらかに増加しているのだ。
 

(前略)30歳を過ぎてもこのように眼軸長が伸び、近視が進行するというのは、従来の眼科の常識からは考えられない事態なのです。

 

この主な要因もスマホの長時間使用であり、コロナ禍による「巣ごもり」がスマホの使用時間を延伸させたのは間違いないが、実際に室内に巣籠もらなくても、コロナの恐怖そのものがスマホの閲覧時間を格段に伸ばしたでのはないか、というのがおれの自論だ。
つまり、コロナ禍という現実を見まいとするがゆえの「心理的巣ごもり」であり、現実逃避のツールとして、スマホは打ってつけの「駆け込み寺」だったのではあるまいか。

さらに、「会話はできるだけ控えるように」という電車内での「お願い」がそれに拍車をかけていた。

ホントに、寒い時季の「窓開け」といい、公共交通機関での「お願い」は、どれもこれも、乗客の健康を度外視した、たんに「濃厚接触者発生防止」のための

 son of a bitch request

ダナ!(ここで芸人「カミナリ」のツッコミが入る)

・・・・・・。


本書では、近視抑制(治療)法に関する最新の医学(ほとんどは成長期の子どもが対象)や、自分でできる近視対策の方法を紹介するとともに、著者のもうひとつの専門である「行動経済学」を応用し、どうしても面倒になりがちな対策実践を後押しする「ナッジ」についても解説している。

眼の酷使を避けるために提唱されているもののひとつが「耳活」


つまり音声配信の活用だ。

おれも、常々、自分が視覚情報に頼りすぎているな、ということは自覚しているので、状況が許せば、音声によって情報を得るように努めている。

ただ、そこで問題になるのがイヤフォンだ。

電車やバスのなかで、音声付動画を視聴しようとすると、どうしてもイヤフォンを使用せざるを得ない。これも音量を絞り、短い時間に抑えていれば問題ないが、過剰使用は聴覚に確実に悪影響をもたらす。ワイヤレスなら、さらに別の影響もある。


眼も大事だが、耳も大事。


たとえワイヤレスではなくても、イヤフォンの使用を習慣化したくない、というのがおれの考えだ。


さて、巻頭の高校生の「内斜視」以外ではあまり強調されていないが、眼に悪影響を与えているのは、「近距離」だけではなく、小さいデバイスであるがゆえの「視線の固定」も大きいのではないだろうか?

またこれも本書では触れていないのだが、スマホの光源であるLEDは、特に画面に近づいた場合は網膜に著しい悪影響をもたらす。この意味でも、スマホ画面を近くで見詰めてはいけない。

さらには、スマホを閲覧するときに頭だけ深くうつむかせることによる「スマホ首」の問題もある。

電車のなかでは、極端にうつむいた姿勢で、近距離(目測20cm未満)からスマホを凝視し、耳にはワイヤレスのイヤフォンを嵌め、もちろんがっちりマスクを着用している、という、複数の「爆弾」を抱えているひとも珍しくない。他人事ながら冷や冷やするが、仮に注意をうながしたところで「余計なお世話」になるだけだろう・・・。


ところで。



会社でパソコン作業をしているとき、おれの眼と画面とはどれくらい離れているのだろうか?

気になったおれは、いつもどおりの姿勢と距離感で頭を固定し、画面と顔との間に「30cmの定規」を掲げて測定してみた。

まだ、少し余裕があった。だいたい40~50cmは離れていることが判明。(老眼が来ているということでもある)

さらにおれは、ふだん自分が(電車内などで)読書しているとき、あるいはスマホを閲覧している際、どのくらいの距離を保っているのかも気になった。だが、いちいち定規を取り出すわけにもいかない。

そこで考えついたのが「ひじの角度」だ。

ほぼ平均的な身長のおれの場合、上腕(肩からひじ)までの長さが30cm弱。
つまり、あくまでもおおよそではあるが、ひじを直角にして本やスマホを持った場合、眼との距離は30cmといえるだろう。鈍角にすると約40cm。鋭角にすると20cmに近くなる。

これは自己チェック法であると同時に、スマホを閲覧している他の乗客が、どのくらいの距離で見ているのか、これで大体判別できる。近すぎるひとは、けっこう多い。

 

 

 

「ある高校生に起こった悲劇」を含めた本書初盤の内容は、Amazonの購入ページや、「試し読み」から閲覧できる。

是非、読んでいただきたい。

 

 

 

不適切な姿勢でスマホを見続けることによる弊害も無視できない。