第56回 マイク・モラスキー『その言葉、異議あり!』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

先日の週末、某地方都市に住む友人夫婦の新居に招かれ、夜、友人らの行きつけでもある某居酒屋に赴いた。

おれらがその店のカウンターで呑みはじめてから二、三時間後、おれの隣にいつのまにか白人の男性客が座っているのに気づいた。
彼はすでにその店の馴染みらしく、店主とも親しげに(日本語で)会話していた。
その日本語があまりにも「自然」なので、おれは「外見は『外人』だけど、彼は日本人なのかもしれないな~」とも感じていた。

決して聞き耳を立てていたわけではないのだが(そして友人たちとの会話も充分に楽しんでいたのだが)、その白人客の発言・言いまわしがあまりにも機知に富んでいたため、ついに思い切って話しかけてみた。

これは、基本的に人見知りのおれとしてはきわめて珍しいことで、相手の国籍・人種・性別・年齢にかかわらず、居酒屋で居合わせた客におれのほうから率先して話しかけることなど、極めて異例のことである。

おれの第一声は・・・。
正確には記憶していないのだが、おれとしてははじめから相手を「外人」だと決めつけるのは失礼になると気を遣ったあまり、おそらく「日本の方ですか?」という意味の言葉を発したかと思う。
(これはこれで失礼かもしれないが)

しかし彼は日本人ではなく、アメリカ出身だということが判明。
その後のわずかの会話で、彼のおそるべき博学ぶり(たんなる雑学王ではない)も顕かになり、おれはますます興味を惹かれた。
(そのころにはもちろん、友人たちも彼との談話に加わっていた)

どれだけ放浪(?)したのか、というほど日本国内の地理も詳しく知っており、おれはおもわず「日本に詳しいですね」という意味の感想を口にした。
そこで返ってきた応えは「もう日本に延べ40年もいるんだから詳しくてあたりまえ」という素っ気ないものだった。

そうなると当然気になるのが彼の「職業」だ。

ジャーナリストなのか、教育者なのか、作家なのか、はたまた諜報部員なのか・・・。

もし諜報部員だったら正直には教えてくれないだろうなとい思いつつも、おれは彼に職業を尋ねた。もうけっこう話が盛り上がってからだ。

だが、職業を尋ねられるのは彼にとって「不本意」なことであったらしく、「人を職業で判断するのは悪い癖だ」というばかりで一向に教えてくれない。

しつこく食い下がるのも悪いので、その場ではそれ以上追求しなかったのだが、じつのところ店主が(馴染みである)友人たちにこっそり教えていて、店を出てからすぐに(名前も含めて)正体が判明した。

やはり彼は某大学で教鞭もとっている研究者・教育者であり、英語と日本語で多くの著書も記している文筆家でもあった。

後日、Amazonで作家名を検索すると、ずらずらと著作が羅列される。おれはさっそく、そのなかから彼が日本語で書いたものを選択し、新書を二冊購入した。

珍しいパターンだ。

まず「本人」と邂逅し、その人柄と知性に触発され、その名前を初めて知り、それからその著書を読むという流れは。

・・・ということで、今回取り上げるのは、
彼、マイク・モラスキーの筆になる『その言葉、異議あり!』である。

「毒舌家」を自認する著者による、気軽な「エッセイ」「批評」という類の著書で、題名のとおり、「言葉」「表現」を端緒にした内容が大半だ。

「毒舌」の「標的」になっているのは日本のことだけに限らない。氏の母国であるアメリカの現状にも及んでいる。

開巻早々まさに「職業を尋ねられる不快さ」に言及していたのには驚いた(笑)。

だいたいのパターンは以下のようだ。

居合わせた客は、外国人が日本でどういう仕事をしているのかまず気にする。 → 大学の「センセイ」だと知って急に畏まる。

このパターンがモラスキー氏は心底嫌いらしい。

<職種や肩書きではなく、人を見て判断してほしいものだ。単純な願いであり、居酒屋での出会いならなおさらそうありたいと思う。>

とはっきり明言されている。

おれが居酒屋でとった行動は(表面的には)まさにモラスキー氏の嫌がること「ど真ん中」だったわけだ。

しかし理解してもらいたいのは、おれは相手が外国人だから職業を尋ねたわけではないということである。ある程度会話したあとで、その「人柄・知性」の背景が気になったのだ。なにゆえこの人はこれほど面白いのだろう、と。

それすらも「不要な好奇心・探究心」だと言われたらそれまでだが、さらにいえば、おれは相手が「センセイ」という理由「だけ」ではいささかも構えないし、畏まりもしないし、軽蔑もしないということだ。

ただ「なるほどね」と腑に落ちるだけであり、その知性を「そういう方向に」発揮しているのだな、と想って「嬉しく」なるだけである。

さらにさらにいえば、モラスキー氏と出遭った居酒屋が、もしおれがいつも通っている、もしくはこれからも通うつもりの居酒屋であったならば、性急に「正体」を判明させようと思わなかっただろうということだ。
おれにとっては旅先同然の土地の居酒屋だったからこそ(もう二度と会えないだろうと考えたからこそ)、常ならぬ好奇心を発揮させたのだろう・・・。

・・・・・・。

本書の内容について駆け足で触れる。
方向音痴のあまり、盲人に道を尋ねてしまったことから派生した「幸福感と孤独感」の件は、おれの想像の幅を少しひろげてくれたのだが、このエピソードをある身近な人に伝えると「それはわたしが常々感じていることだ」と言われて、おのれの認識の狭さに気づかされた・・・。

アメリカ特有の(と思われる、と氏も記している)軽蔑語である「ホワイト・トラッシュ」や「レッドネック」に関する考察もおれにとっては目新しいものだったが、とくにレッドネックとよばれる人たちを揶揄したフォックスワージーというコメディアンによるレッドネック・ジョークの位置づけについては、どう考えればいいのだろう?

歴史的背景が異なるため、この「お笑い」形態を日本にそのまま置き換えることは困難だが、むりやり置き換えればこういうことになるか。

たとえば、日本人の共通認識として○○県人は他県人に較べてあきらかに軽蔑の対象となっていたとする(あくまでたとえばの話だ)。

そして○○県人特有(と思われている)行動を挙げ、そういう行動をしたら君も○○県人だ、といって笑いを取るのだ。

著者の訳の仕方をそのまま借りると、

「君も○○県人かもしれんぞ、だって……」

と「○○県人特有の行動/思考」を挙げていくわけだ。

そして、それを大衆的な笑いに繋げるには、コメディアン自身が○○県人であることによる<自虐>の要素がほぼ必要条件であり、それゆえそのギャグには○○県人への愛情も含まれている・・・。

<”You might be a redneck if..."><「君もレッドネックかもしれんぞ、だって……」>


レッドネック・ジョークの微妙なところは(その独特の言い回しがウケていることからもわかるように)レッドネック特有の行動をすれば、誰でも、レッドネックになってしまうぞ、というように「自虐」と同時に聴衆の「危機意識」も煽っているのではないかと思われることだ。

レッドネックって○○なやつなんだぜ~、みんなで笑ってよ! というだけではなく、○○をしたらおまえもレッドネックなんだぜ~、笑われちゃうよ! という意味合いが含まれているように思う。

いつでも「差別する側」から「差別される側」へ転落するリスクが偏在する。

それがアメリカ特有(と思われる)差別意識なのかと想像するが、まさに新自由主義経済の果ての「貧乏大国」にむかってまっしぐらのアメリカの現状とシンクロしているではないか・・・といったらこじつけだろうか。



<今回の「電車内観察記」> ※といいながら、電車内ではなく「駅構内」での話。

ある夜。電車を降りたあと、脚を怪我した連れと一緒にホームからの階段をゆっくり、ゆっくり昇っていた。階段は三人横に並べるほどの幅があった。階段のこちら側にエスカレーターはなかったので、他の人に邪魔にならないように、階段の一番端を、ゆっくりと昇っていくことにしたのだ。痛くないほうの足で一段あがり、痛いほうの足をそれと同じ段に持ち上げる、という超スローモーな昇り方だ。おれはそのペースに合わせ、連れの後ろに尾いて昇っていた。

最初、ばらばらと数人がおれたちを抜いていった。そのあとは誰も追い抜いていかない。階段を昇り切ろうというあたりで、ふと後ろを振り返って連れと一緒に驚愕した! 

当然おれたちが「最後尾」であり、後ろには誰もいないとばかり想っていたのに、後ろには十数人が階段の下まで一列になって、ぞろぞろとおれたちのあとにつづいていたのだ。追い抜くスペースは充分すぎるほどあるのに追い抜きもせず、おれらの超スローペースに恭しいまでに「従順に」添いしたがって・・・。

御多分に洩れずケータイばかりを見詰めているからこうなるのだろうが、それにしても、その「盲従」ぶりが不気味すぎて嗤えた。

それともその十数人は、そろって脚を痛めていたのか?





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