第24回 山内昌之『嫉妬の世界史』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

気づけば、久々のブログ更新。

えっ? 4月に入って初めて? 

そんなに経つか・・・。

その間、通勤していなかったわけでも、
電車内で本を読んでいなかったわけでもない。

ただ、ちょっとここのところ、
某業界の「システム」「仕組み」を調べるために、
ムック本、その他の「資料」ばかりを立て続けに読んでいた。

そういうのって、
ブログで「感想」を述べるような類いのものではないので、
半月近く更新が遠のいてしまっていたというわけだ。

それ以外、深い理由はない。



・・・・・・。


さてさてさて・・・。


しかしながら、始発電車を巡る「席取り競争」には
熾烈なものがあるな。

地震・停電による「間引き運転」が解消されたと思ったら、
またぞろ、セルフィッシュな「我れ先ゲーム」の再開だ。


地下鉄の「始発」が出る駅のホームには、
少しでも席を取るのに有利な乗車扉を確保しようと、
眼を血走らせた乗客たちが縦横に駆けまわっている。

毎朝、おれはA駅から電車に乗るのだが、
すでに、その車内の一部は静かに殺気立っている。

始発の出るB駅で開くほうの扉の前には、
すでに乗客たちが二列に並んで、
マラソンのスタート地点並みに、
「ready」状態で待機している。

スタート地点を1ミリでも前にしようと、
前にいる客との間合いを、
1ミクロン単位で計っているかのようだ。

そして、

そして、

扉が開くやいなや、ダーーーーッシュ!!!(^△^)

ホームの反対側まで(目測で)15m。

目的の始発電車自体はまだホームに着いていないが、
その始発電車に優位に乗り込むために、
15m先の
【3列にお並びください】
と書かれたゾーンにむかって、
オジサンもオバサンもオニイサンもオネエサンも跳び出していく。

もちろん一箇所からだけではない。

あっちの扉からも、そっちの扉からも、
そっちのゾーンや、あっちのゾーン目掛けて、
コンマ1秒をめぐるスプリント競走がホーム上で展開されるのだ。

ウサイン・ボルトであろうと
その競走に勝利を収めることのできる保証はない。

なにがなんでも勝とうとすれば、
ボルトの場合、
向こう側の「上り」のホームまで跳んでいってしまうだろうから、
結局「負け」だ。


ともかく、この「競争」って、
心理的に相当つらいだろうな、と想像する。

なぜなら、こういった「競走」の場合、
いざ電車が来て乗り込んだあと、
もしかしたら惜しくも「一人違い」で座れない、
というムゴい事態にならないとも限らないからだ。

だから、まったく安心はできない。
座れるという「確信」は到底持てない。

「乗り遅れるかもしれない」
「一人違いで座れないかもしれない」
「できれば自分の前にいるコイツを殴り倒したい」

という強迫観念に怯えざるを得ないからだ。

かつて経験した、
「一人違いで座れなかったあーー!」という、
悔やんでも悔やみきれない「負の記憶」
その心理に拍車をかけているのだろう。


ちなみに、
おれはその「競争」には加わっていない。

同じくB駅で乗り換えるのは共通なのだが、
おれの乗り換えようとする電車は、あまり競争率が高くないのだ。
(やはり、遠くまで行く電車の競争率は高い)

もっと本質的なことをいうと、
おれが、座ることにさほど執着していないというのも大きいだろう。

おれは、
「座れる状況のときは座る」
「でも、座れなくても(肉体的に)苦ではない」
「座ることによって不快になりそうなときは、むしろ立つほうを選ぶ」
という感覚でいるから、心理的に余裕がある。


あと、少しだけだけど、
自分なりの「見栄」「美学」もあるかも。

カッコ悪いじゃない?
席取り「なんか」に血眼になってる姿って・・・。

失礼ながら、
人生でいったい何を優先しているのだろう、
と思ってしまう。

言いすぎかな・・・。



・・・・・・。


さて、人間の感情には煎じ詰めれば「嫉妬」しかないんじゃないか、
とコラムのなかで嘆息を洩らしていたのは、
故・山本夏彦だ。


そのせいというわけでもないのだが、
おれも自分のなかの「嫉妬」の感情には
人一倍敏感である(つもりだ)。

他者を責める、非難する、否定しようとする。
その行為のなかに「嫉妬」の感情が混入していないかどうか、
いちいちこまめにチェックしている(つもりである)。


人間が宿命的に「社会的」な存在である限り、
自己と他者の比較は免れない。

ときどき、

「私には『嫉妬』の感情はない。なぜなら自分と他人とを比較しないから。比較しないのだから嫉妬なんかするわけないでしょ」

ということを主張する人(とくに芸術家とか)がいるが、
その言説にこそ、強烈な「自他比較」がひそんでいるのだと思う。

比較することがもたらす「つらさ」から逃げて、
必死で「現実」から眼をそむけているのか、

でなければ、

「私は、自分と他者とを比較して一喜一憂しているようなあなたたちとは違う」

というかたちで、
とりもなおさず他者と自分を比較しているにすぎないからだ。

で、自他比較あるところに嫉妬はある。

いうまでもなく嫉妬は感情だ。
「理性的に計算する」ことはできるが、
「理性的に嫉妬する」ことはできない(はずだ)。
(感情と理性を明確に分けることができるならば、の話だが)


本来なら、他の感情と同じように、
ある程度(あるいは厳重に)理性でコントロールすべき対象だ。

それが真っ当な判断であるのか、
単に「感情」に流されての行為なのか、
理性を以って「検閲」しなければならないだろう。


しかしながら、
「怒り」や「憎しみ」や「性的欲望」はコントロールするのに、
「嫉妬」は検閲なしで露呈してはばからない、
というひとが稀にいる。


一般に理智の権化、明晰・分析の極北のようなイメージの
森鷗外が、かくも自らの「嫉妬心」に翻弄されていた(らしい)ことを、



『嫉妬の世界史』(山内昌之 著)



で知った。

たしかに、鷗外というのは、
自分に対する「評価」には過剰なまでに敏感で、
ささいな「批判」に対しても、
それを徹底的に論破するまで手綱を緩めないことで有名だ。
(昔、三島由紀夫の評論で知った)

裏を返せば、
鷗外がつねに他者からの評価に「不満」を持っていたことの顕れであり、
とくにその不満は、
軍医として勤めていた官僚の世界で露骨なほど露わになる。

高い「自己評価」のわりに、出世が思わしくなかったからだ。

そして嫉妬の矛先は、かつて自分を取り立ててくれた
「恩人」にすらむけられる・・・。



本書『嫉妬の・・・』は、
古今東西・老若男女における「嫉妬」がらみのエピソード集だ。

もちろん先の鷗外のエピソードだけではない。

太田道灌に対する上杉定正の嫉妬とか、
もっと古(いにしえ)の例だと、
マケドニアのアレクサンドロスの抱いた
セレウコスやアンティゴノスなどに対する嫉妬。

「雪の博士」中谷宇吉郎と、
奔放な牧野富太郎の嫉妬がらみの対比。

トハチェフスキに対するスターリンの敵愾心や、
劉少奇に対する毛沢東の憎悪。

それに、関ヶ原の合戦時の
島津義弘に対する兄・義久の感情・・・。


歴史的に深い考察が展開されているというより、
むしろ著者の、

「もともとそれなりの(あるいは著しい)能力があったのだから、嫉妬にさえ狂わなければ、個人的評価も、組織も、その後の社会も、もっとマシなものになったのに・・・。残念」

という嘆きが聞こえてきそうな内容だ。

同時に、自分の有能さ、野望を無防備に露わにしたがために、
余計な「嫉妬」や「反感」を買ってしまった例も多数紹介されている。

そういった人物たちに対する、

「余計な嫉妬を買わないようにもっとうまくやれよ。まったく」

という視線も基調として存在する。

(森鷗外などは、自らの嫉妬心も露わにし、
併せて、他人の嫉妬を買うような行動も無防備に取りつづけた典型例だ)


飛び抜けて優秀なのに周囲の妬心を買わなかった稀有な例として、
著者は徳川家光の異母弟・保科正之を挙げている。

保科正之の高潔な人格は歴史上有名で、
歴史・時代小説家の中村彰彦なども
その著作のなかでたびたび絶賛しているが・・・、


ありゃりゃ、なんと、


まさに中村彰彦の
『保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩士』が、
巻末の参考文献に挙げられている・・・。



・・・・・・。


冒頭の「席取り」にしても、
「一人違い」で惜しくも座れなかった人が、
自分よりひとつ前に座った人(つまり「最後の席」を奪った人)
に対する「嫉妬」も、ときには熾烈だろうな。

ま、席取りを一種の「ゲーム」と割り切って、
「きのうは座れたけど、きょうはダメだったか・・・」
とあっさりと諦める人が大半だろうが、
なかには、根に持ちそうなひともいそうだなあ~。

くやしさと嫉妬のあまり、
目の前に座ってる人を露骨に圧迫したりして。


おれの見るところ・・・、
座りたくて座りたくてしょうがない、という客は、
立っているときの行儀が、・・・総じて悪い。


逆に言うと、立っているときの行儀が「悪すぎる」客は、

「座ること」に著しい執着を示すことが多いようだ。






不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

嫉妬の世界史 (新潮新書)
 山内 昌之 著