第8回 内田 樹『日本辺境論』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

何を読んだらいいのか・・・?

約一年ほど前になるが、
本を選ぶ、その選択「基準」に、
一時的に自信を失いかけたことがある。
それなりに長い「読書歴」のなかで、
おもえば初めてのことだった。

書店に並ぶ本のなかから読みたいものを選ぼうとする。

そのときに、

「そんなの読んでていいのか?」
「もっと、『役立つ』本を読むべきではないのか?」

という「声」がどこからともなく聞こえてくるのだ。

なぜそんな状態になったのか?

それは、実に「効率よく」人生を生きている
●●さんという人が身近にやってきたからだ。


もちろん、もともと抜群に(おれなどとは比較を絶して)
頭がいいのは間違いないのだが、
有名大学を卒業し、一流企業に就職し、
そこでめきめきと頭角を表し、
海外経験も豊富で、
もちろん英語もぺらぺらで、
経営者になってからも
幾多の実績を残している・・・。
人望も篤い。

ビジネスパーソンとして、
スキがなく、ムダのない人生。

これぞ、「賢い生き方」だ。

そういう人と比べちゃうと、
おれは破滅的に「非効率」な生き方をしてきたなー、と。

いまからでも、おれも●●さんを見習って

「成果」に直結するような「本」を読むべきではないか、と。

もう手遅れかもしれないが、
「すぐ役立つ知識」「情報」をこそ、
効率的に吸収すべきではないのか、と。

だが、

そう思って本を探すと、

何を読んでいいのかわからない。


いや、わかるんだよ。

これこれの知識を得ようとすれば、どういう本を読むべきか、は。

「ああ、●●さんのようになるには、
こういう本をどんどん読むべきなんだろうな!」と。

だが・・・、


しかし・・・、


興味ねええええええ!


読みたいと思わーーーーーーん!!



そこでおれは悟った。
固く悟った。


おれは、ビジネスパーソンとしての「成果」をあげるために
本を読んでいるわけじゃないのだ、と。

あるいは、酒の席で、●●さんのような人から、
「こいついろいろ知ってるな」と思われるような
「ウンチク」を得るために読むわけでもないんだ、と。

たぶん、内田樹や呉智英や春日武彦(以下、つづく)を読んでも、
とりあえず「出世」にも「キャリアアップ」にも、
「あいつは物知りだという評価」にも直接はつながらない。

酒の席での「ウンチク」のネタとしても適当ではない。
(内容が哲学的すぎて。あるいは重すぎて)


でも、おれは、役に立つかどうかはわからないが、
読みたいものを、
「これだ」と思ったものを、
「本能にまかせて」とことん読んでやる!
読み尽くしてやる!

と、ひとり書店の書棚の前で叫んでいた。
(ただし、声は出さずに心のなかで)


短い「気の迷い」であった。
時間にして、ほんの二、三日の・・・。


おれは確かに「即効性」ある本はあまり読まないが、
思うまま、気のむくままに、
(たとえば)内田樹の著書を立て続けに何冊も読んでいくと、
思考の深いところが「変質」しているのが実感できる。

一冊ではよくわからず、
そこで得た知識も気軽な「話題」としては適当ではなく、
読んでインプットしたものをアウトプットする機会も
そうそうないのだが、
何冊か読んでいると、確実に思考パターンそのものが
変わっている・深化しているのが感じられるのだ。


たとえばついでに(?)今回取り上げるのは、

またまた内田樹の、

『日本辺境論』!!!


「新書大賞2010」の大賞を受賞した本をいまさら!
かもしれないが、実は今回は再読。

昨年、ほぼ刊行と同時に読んでいたのを、
最近になってまた読んでみた。


日本という国は、
近隣に(古代支那)という「中華」が存在し
その成立当初から「辺境」の民として
その歴史を重ねてきた。

ここで要約しようとしても、
ポイントをいくつか取りこぼしてしまいそうだが、

「辺境人」であるがために、
・規範は常に外にあった。
・したがって自分が先頭に立つ必要はない。
・規範をみずから作る必要もない。
という立場で生活してきた、

ということらしい。

・・・らしい、と言っても、
歴史的事実、
そしておれ自身の実感として、
素直に腹に落ちる論である。


もちろん内田氏は、
「だから日本人はダメだ」
といっているわけではない。

そうではなく、
日本人って昔からこういうものなんだから、
(裏返せば、その性質ゆえの美点も多いのだから)
そのどうにもできない性質を自覚して、
その上で有意義に生きていこうではないか、
と提唱している(のだと思う)。

「辺境人」の気質ゆえに発展した
独特の「学び方」についても言及している。


「辺境人」として「世界に遅れてゲームに参加」
した(という意識が根底にある)がゆえに、
「学ぶ」ということに対して
日本人は世界でも特殊な能力を備えている。

それは、
この師に就いて学んだら何を得られるのかなど解らない段階で、
それでも「学び始める」ために、
どういうわけか師を正しく選択することができる、
という能力だ。

これは世界でもあまり例をみない特質らしい。

自分がそういう「能力」を持っているという
自覚、あります?

おれは我が身を振り返って、「なるほど」と思う。


あと、歴史認識で、おれがなるほどと思ったのは、
(歴史に詳しい人にはすでに自明のことなのかもしれないが)
日露戦争に勝利をおさめた日本が、
なぜ、そのあとすぐに、
太平洋戦争につながる「愚挙」に出たのか、
という話。

日露戦争といえば、
いま注目を浴びている司馬遼太郎の『坂の上の雲』。

司馬遼太郎は、日露戦争後の日本の行動の不可解さを
日本人は痴呆になってしまったのだ、
という意味の論旨を以て説明している。
(ということズバリは本書では言っていない。
ちがうところから得た情報だ)


ところが、内田氏の言うに、
「愚挙」の真の理由はこうである。


「(日露戦争後)韓国を併合し、満州国を建国し、インドシナを抑え、フィリピンを制し、大東亜共栄圏と称して『あまねく東洋を威服せん』とした」「一連のアジア戦略は『帝政ロシアが日露戦争に勝って、そのまま満韓を支配した場合にしそうだったこと』だったからです。」


つまり、日本人はオリジナルのビジョンとして
大東亜を手中に収めようとしたわけではなく、
それすら先達(当時の列強)の描いた「下絵」を
忠実にトレースしたにすぎないのだ。


ま、日本人のそういう特質が、
結果的として、危うく「亡国の危機」にまで
導きかけてしまったわけだ。このときは。


これは(「歴史概論」好きのおれにとっても)
新鮮な歴史解釈だった。
初読のときも再読の際も、読んでいてゾクゾクした。

つまり、司馬遼太郎はじめ多くの人間が評するように、
日露戦争後から太平洋戦争前の日本人が
特別愚かだったというわけではなく、
「辺境人」「遅れてやってきた民」として、
つねに(広義の中華である)「世界標準」に
キャッチアップしようと血眼になっている点において、
昔も、今も日本人の本質は変わらないというわけだ。


「辺境人」として「中華」に、
追いつくこと、追いつくこと、追いつくこと・・・。

これだけが日本人にとって問題なのだ。

(「追いつき追い越せ」というスローガンがあるが、
いざ本当に「追い抜いて」しまったとしたら、
もはや日本人はどうしていいのか分らなくなる。
したがって、
「世界標準」や「中華」に「追いつく」ことは至上命題だが、
それを「追い抜く」ことは、日本人にとって、
本意ではないということになるんだね)


「学び」のところに立ちもどると、
日本人は「何かよくわからないけど凄そうなもの」に対して、
すぐに心を開く、オープンマインドになるという
辺境人ならではの特質をもっている。


そこまでしなければ、遅れてゲームに参加した存在として、
効率よく、学ぶことはできず、
したがって「中華(=世界標準)」に追いつくことはできない。

しかし、その特質が行き過ぎて悪い方向に転ぶと、
「よく分らないけど威張っている存在」に
すぐに平伏し、翻弄させられてしまうことになる。

これを内田氏は「学びへの過剰適応」と呼んでいる。


と、ここまで書いてきて、ふと思う。

おれは、
「これを学べばこういういいことがありますよー」
という「成果」「得」がほぼ約束されているような読書には
ほぼ興味がない。

でも、これを読めばなにかありそうな気がする!
という本能に任せて、
内田樹や呉智英や春日武彦(以下、つづく)を読んできている。

これって、日本人に特化した「学び」の典型なんだよね。

でも、電車のなかでふと眼を転じると、
そこで読まれている多くは、
「日経新聞」とか「一級○○士資格試験問題集」とか・・・。

それらを熱心に読んでいる乗客の多くは、
「これを憶えておけばこれこれこういう得がある」
ということを、かなり確信を以て読んでいるのだと思う。

つまり、
「日本のビジネスマンとしての標準」を
強烈に求めているのであると思うし、
ひいては、「欧米のビジネスモデル」を規範としている。

多くの日本のビジネスマンは、
みずから「規範」を作ろうなどとは夢にも思わず、
無意識のうちに、
よかれと思って、
それこそがあるべき姿だと考えて、
現在主流の「世界標準」に近づこうとしている。


おれの「読書」と、
彼らの「勉強」は、
日本人の「学び」の姿として、
車の両輪みたいなものだ。

そして、おれの読書のほうが
より「日本人独自」の姿勢なのかもしれない。



さらに言うなら、
おれの読書は「武士の商い」に近いのかもしれない。

「努力と報酬の間の相関を根拠にして行動すること」は、
「武士道に反する」からだ。

おれが●●さんのようになるためには何を読めば・・・
と迷ったのは、いまから思うとおれの「純化」への
むしろ逆行だったのかもしれない・・・。


詳しい意味が知りたい人は、

是非買って読んでね。


  ↓

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~


日本辺境論 (新潮新書)
 内田 樹 著


いまさらおれが紹介するのも憚られる
日本人必読の日本人論。
(という言葉にほだされるのが、
とりもなおさず日本人の気質なのだそうだ)