第6回 呉 智英『言葉の煎じ薬』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

小・中学生のころ、
TVや新聞で眼にする「有識者」のコメントに対し、
「おれにはとてもこんな『立派な』ことは言えない」
「こういうところに出てくる人ってなんて頭がいいんだろう」
と思った。

高校生のころ、
TVや新聞で眼にする「有識者」のコメントに対し、
「おれと同じ意見だ」「おれにもこのくらいは言える」
と思った。

高校を卒業し、大学に入ったころ、
TVや新聞で眼にする「有識者」のコメントに対し、
「なんてバカなやつらだ」「それは違うだろ」
と思うようになった。

かろうじて「進化」らしきものをつづけるおれの前に、
ある日突然現れたのが、


呉智英


という男(インテリゲンツィア)だった。

呉智英は、「くれ・ともふさ」と読む。

あるいは、「ご・ちえい」でも可だと本人が言っている。


呉智英は、二十代前半のおれにとって、
「知的英雄」だった。

呉智英のおかげでおれは、
「大衆」の泥沼に足をとられながらも、
そこにどっぷり浸かる愚かさを認識することができた。

少なくとも、
「その泥沼にどっぷり浸かることは愚かしい」
と思ってしまう自分は間違っていないのだ、
と確信することができた。


いまでこそ「民主主義」に対する懐疑を
多くの「評論家」も口にするが、
当時、呉智英の言説は「危険思想」といういより
「世迷言」に近い扱いだった。

最初に出遭ったのが、


『バカにつける薬』


これを友人から借りたときは、
「世の中にはこんなバカもいるんですよ。みんなで嗤(わら)いましょう」
というノリの、軽い「読み物」だと思ったのだが、

さにあらず、

大衆や二流知識人という名の魑魅魍魎との「闘い」を記録した
一種の知的「戦記」だったのだ。

「まえがき」(「『バカにつける薬』効能書き」)から
すでに人を喰っている。


本書は、こういうバカにつける薬である。この薬の効用は、バカにつけるとバカが治ることである。その薬効の仕組みは、体内に潜むバカ菌を殺すというものである。副作用は全くないが、既に全身がバカ菌で置き換えられるほど重症になっている場合は、患者そのものが死に至ることがある。使用時は、十分なる注意を払われたい。



即、呉智英に魅了されたおれは、
他の著書を探し求めた。

『バカにつける薬』の前に発行されていた
『インテリ大戦争』はすぐに書店で見つかったのだが、
デビュー作である、
『封建主義、その論理と情熱』
が見つからない。

書店に問い合わせると、
すでに「絶版」になっているとのこと。

そうなるとなおさら読みたくなり、
古本屋もけっこう探してまわったが、
まるでみつからない。

(まだインターネットなど普及していない時代だ)

思い立って国会図書館まで行き、
そこでは館外への貸出しをしていないので、
閲覧可能時間内に極力読破し、
琴線に触れた部分はコピーして帰ってきた。
(全ページをコピーしたかったが、コピー枚数に制限があったのだ)

そんなことも、いまでは懐かしい思い出だ。

『封建主義、その論理と情熱』は、のちに(1991年に)
『封建主義者かく語りき』という書名で別の出版社から復刻。
その後、さらに別の出版社から文庫本も出ている。・・・

ということで、以来、新刊が出るたびに読みつづけ、
新聞や雑誌に掲載される言説にも注目してきた呉智英だが、
著書には「言葉」自体に関する評論も多い。

著名に『言葉の・・・』が入っているものだけでも、
『言葉につける薬』から始まって、
『言葉の常備薬』などがある。

基本的に、言葉の「誤用」に対する批評なのだが、
だからといって、
たんに他人の「誤記」をあげつらっている「だけ」の本ではない。

その誤記・誤用の陰にどのような「背景」があるのかを
膨大な知識・知見を基に詳細に考察しているのだ。

そういう考察を通じて、
日本語がどれだけ歴史的な厚みを持った言語であるか、
その裏にある日本文化がどれだけ重厚なものであるか、
などを、同時に力説しているわけだ。


で、今回取り上げるのは、


『言葉・・・』シリーズ(?)の最新刊、



『言葉の煎じ薬』。



どこから読んでも構わない短い「論考」が
ちょうど五十編収録されている。
(いま、目次を見て項目数を数えた)

なかでも、個人的に「へえ」と思ったのが、
まず「蟲」と「虫」の違い。

「戦後の漢字改革による混乱がそのまま定着して『蟲』と『虫』が同じ時だと思われているが、本来これは別字であった」そうだ。

「蟲」のほうが昆虫などの虫の意味で、
「虫」は毒蛇の意味だったという。


「蟲」は画数が多いため、
古くから略字として「虫」と書かれてはいたのだが、
漢字改革で無理矢理「虫」に統一されてしまったらしい。


さらに、大和言葉の「むし」は、
昆虫より広い意味を持っていて、
さらに、
支那語で「虫」と書くと、
哺乳類を意味することもあるそうだ。

「大虫」は、なんと虎の意味。

昔の支那の人々は畏怖と敬意の念を籠めて、
虎のことを「偉大な虫(生物)」、
「大虫」と呼んだそうな。

(「『虫』と『蟲』」より)

ほかにも、
妖怪は同じ言葉を二語つづけて言えないので、
「もしもし」を「もし」と言ってはならない。
最近の日本語はなんでも省略する風潮があるが、
「もし」が定着しなくてよかった、
という話(「ケータイは異界への窓口」)や、


粕という字は「米」が「白い」と書くから
精白米は米のカスだ! 
といって白米食を否定する玄米主義者に対しての
字義の面からの反論(「疑似科学と疑似漢字学」)とか、


どれも、言葉を考える上で、
同時に言葉に惑わされない思考を養う上で、
「実効性」のある話が詰まっている。

蕎麦好きのFくんには、是非、
「長い長いそばの話」を読んでもらいたい。

ま、読んだからといって
蕎麦がより美味しくなるとか、
美味しい蕎麦屋が見つかるというわけでもないんだけど。



と、『言葉の煎じ薬』を電車の吊り革につかまって
立って楽しく読んでいると、



・・ドズッ!



突然、斜め後方から背中を押された。


おれは内心ため息を洩らす。


よくいる輩だ。



隣の車両から移ってきて電車内を移動していく際、
立っている人たちを平気で、無言で押しのけていく輩。



たぶん、むこうからすると、
「邪魔だよ!」と自己都合で思っているのかもしれないが、
乗車率120%の車内で、
「車両を移動していく人」に備えて、
はじめから通路の中央部を空けて立っている人なんか、
いないから。

例外だから。
特例だから。

通路を歩いて移動する人って。

そんなことに常時備えて立ってる奇特な人なんか、
い・ま・せ・ん。


むしろ、移動する側が、
「すみません」「失礼」の言葉をかけていくべきでしょう。

もう「言葉の考察」以前。
誤用・誤記がどうこうというレベルですらない。

なんたって、言葉をしゃべれないんだから。





不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~
バカにつける薬 (双葉文庫)
 呉智英 著


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言葉の煎じ薬
 呉智英 著