第2回 貴志祐介『悪の教典』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

ども。

第2回目ということだが、
前回は「序段」的な内容だったため、
今回が実質的な「初回」。


最初に取り上げる本は何にしようかな~、

せっかくなら、

このブログを読む人の度肝を抜くような
難解「そうな」本にしようかな~、


と悩んだ末に決定したのが・・・、


貴志祐介さんの最新作 


『悪の教典』!!!

(そもそも、他人の度肝を抜くような難しい本など読んでないからな)

というのも、おれは常時、
3冊くらいの本を併行して読んでいて、
状況や、気分によって、適宜読む本を変えている(ときもある)。

朝の通勤時に読む本と、
会社の昼休みに読む本と、
夜の通勤時に読む本とが、

別々ということも珍しくない。


だから、一冊読破するのに時間(日数)がかかるし、
逆に、併読しているがゆえに、
立て続けに、日数を置かずに、複数の本を読了する、
ということもままある。


最近も、何冊かの本をほぼ同時期に読み終えたのだが、
そのなかから選出したのが、

『悪の教典』。


貴志祐介(これ以降は、基本的に作家名は呼び捨てにする)の作品は、
日本ホラー小説大賞長編賞で佳作となった
『十三番目の人格 ーISOLAー』以来、
常に、上梓とともに全作品を読んできた作家である。


今回の『悪の教典』は、
同じ賞で大賞となった『黒い家』につづく、
サイコパスもの。

つまり、
「他者への共感」とか、いわゆる「倫理観」とか、
感情レベルでの「罪悪感」とか・・・、

そういった「社会に生きる人間」として
根本的な性質がすっぽりと抜け落ちた
「怪物」が主人公というわけである。


しかも、


出世作『黒い家』に登場する「サイコパス」は、
異常な「狡猾さ」を示しながらも、
「知的」でもなければ「教養」があるわけでもない。
社会的評価もきわめて低い。

傍目にも不気味な「異形のもの」として描かれていたのだ。


しかるに、


この『悪の教典』の主人公は、

世間的には(同じ職場の同僚や生徒たちからも)、
好人物として見なされているのだ。

外見も、能力も、性格も、人格も、

人並み以上の人物として高い評価を得ているのである。

学歴も、経歴も申し分がない。


※主人公は、京都大学を中退している設定。
 ちなみに、著者の貴志祐介は京都大学卒。



なぜ、それだけの評価を得ているのか?
どうして、人間としての基本的な資質を欠いていながら、
『黒い家』のサイコパスのようにおぞましい存在として生きているのではなく、
社会的評価どころか、
身近な人間の人望まで得ているのか???


それが、この小説の基本的な「ホラー」部分だ。


つまり、主人公は、
「擬態」に長けているのだ。

すなわち、演技。


他者への「共感」は、できない。
でも、共感しているように振る舞うにはどうしたらいいのかを
まるで高度な演技論を理解するように理解しているわけだ。


ある意味で、プロの俳優並みに。
いや、それ以上に。



でもね。


一応(ほんとうに一応)サイコパスではない人間が、
完璧な演技で「一見人情深い」人物としていきているサイコパスを、
「ずるい」とか、
「おぞましい」とか、
「悪辣だ」とか、
と、糾弾することができるだろうか、ということである。


「演技」「嘘」「方便」なしに生活している人間っていないでしょ?

そんなことどうでもいいよ、と思いながら共感している「ふり」をしたり、
ここで涙を見せていたほうがあとあと「得」するからといって「嘘泣き」をしたり。

そんなの日常茶飯事でしょ?
茶飯事でなくても、いざとなるとできる「人間」っているでしょ?

だから、


「サイコパス」の「擬態」と、
「正常な人間」の「方便」との
境界線はどこか、という、
そういう問題を、
貴志祐介は読者に突きつけているわけだ。

サイコパスを語るときの基本的な問題として・・・。


主人公は、ある相手にむかって、こう嘯く(うそぶく)。

日常の問題を解決するのに、
自分はふつうの人より解決方法の選択肢がひろいのだ、と。


ふつうの人が躊躇する方法でも、
自分は必要とあらば、ためらうことなく実行する、と。

その、ふつうの人なら躊躇する解決方法って、


つまりは、


自分にとって都合の悪い(都合の悪くなりそうな)人間を、


殺すことなんだけどね。



だから、主人公はこの小説のなかで、
都合の悪い人間を殺すわ、殺すわ・・・。


後半の鏖殺シーンの残虐さも
もちろんこの「ホラー小説」のひとつの
「クライマックス」ではあるのだが、
本当の恐ろしさは、

鏖殺を終えた終盤も終盤、
第十一章の残り十ページほどから終章にかけての描写である。


『黒い家』にしても、サイコパスにまつわる
「本当のホラー」について書かれていたのは、
最後の数ページだった。

で、『悪の教典』に描かれる恐ろしさは、
『黒い家』で指摘されていた恐ろしさを超えている。

どうして恐ろしいか。

その理由は、もちろん、
『黒い家」の発表された当時から存在したのだが・・・。



・・・・・・。



現在、『悪の教典』はハードカバーでしか発売されていない。
文庫本ではなく、ハードカバー。
上下巻で、一巻が、四百ページ以上ある。
ずっしり、重い。

通勤電車のなかで読むには、
あまり適当(内容も、装丁も、サイズも)な本ではないかもしれないが、
タイミングよく座席に座れるときを選んで読んだ。


または、座って読むために、わざわざ始発電車を選んで乗った。



おれが、まだ『悪の教典』の上巻を読んでいるとき、
隣の席に、ひとりのオジサンが座ってきた。


よく、オバサンがシートの狭い隙間に
お尻を割りこませて座ってくる、
という描写は笑い話として取り上げられるが、
(おれ自身は、そういう局面に未だ遭遇したことがない)
そのとき座ってきたのはオジサンだった。


しかも、かなり「ガタイ」の大きいオジサンだ。
柔道とかをやっていそうな印象だ。


たとえば、「7人掛け」とうたっている電車のシートにしても、
あれは、平均的な体格な人間なら7人座るのに適している、
ということであって、
仮に、ガタイのいい男ばかりがそろったら、
7人などとても座れない。

7人のなかに、細い女の子が座っていたりして
ちょうどいいスペースなのだ。


そのときは、まさに、
たしかに隙間はあいているが、
だからといって、
「ガタイのいい男」をひとり加えるには、
極めてキツい状況だった。


しかし、その男は座ってきた。


そのオジサンのでかい尻がおれの横のスペースをめがけて
ゆっくりと下降してきたとき、
おれは正直、


「マジかよ!」


と、心のなかで思ってしまった。


小柄な女の子でなくてもいい。
細身の「草食系男子」なら無理なく座れる。


しかし、人一倍大柄な
レスラー体型のオヤジを受け入れるスペースはない!!!


おれのそんな思いなど関係なく、
でかい尻をねじ入れてきたよ、この生肉食系の岩石男は。

まるで『悪の教典』に出てくる
体育科教師の空手マン、園田教諭のような男である。

さらにその男、
小さな文庫本を読み始めたのはいいのだが、
本を持った腕をまっすぐ前に伸ばし、
太い、毛むくじゃらの腕を床と平行にして読み出したのだ。


たぶん、自分のガタイのよさを自覚している彼なりに、
隣の人(その片方はおれ)と肩と肩がぶつからないよう、
気を遣ったつもりなのかもしれないが・・・。

だが、すごく迷惑だった。

はっきり言って、

かつて遭遇したことのないほど迷惑度だった。



というのも、


腕を前方に伸ばしているゆえに、


その人の腕というか、腕のつけ根の部分が、


微妙に、


おれの肩の上に乗っているからだ!


もちろん、どっかりと乗っているわけではない。


おれの肩の端っこに、
ぎりぎりその人の腕が乗っているのだ。



たしかに、短時間なら、
互いの肩が「水平方向」に押し合わないから
「楽」かもしれない。


しかし、数分、十数分、という時間が経つと、
その男の「腕の重み」が、
耐えがたいほどの負荷となって、
おれの肩を浸食しはじめた。


繰り返しになるけど、
そのオジサンは、他者に迷惑をかけないよう、
「善意」からそういう姿勢をとっていたのだと思う。


でも、はっきり言って、ありがた迷惑。



これなら、互いの肩と肩が触れ合って、
「水平方向」に押し合っているほうが、
よほど、楽。


だからおれは、
そのオジサンの座高に合わせ、
思い切り上体をたてに伸ばすようにして、
わざと、
横方向に押し合うような位置に自分の肩を持っていった。


横方向に押し合うのもきついが、
上に乗っかられるより、
よっぽどマシ。


でも、そのオジサンからすると、
おれはのことは、
「譲り合い」の精神がわからないバカな「若造」に思えただろうな。

けっこう不快そうにしていたのが感じられたから・・・。


「サイコパス」の小説に一時的に感化(感情移入)していたおれからすると、
そのオジサンは「都合の悪い」存在だった。


おれが蓮実聖司(主人公)なら、
即、排除されたかもしれないぞ!

と思いながら、それからさらに十数分間、
そのオジサンと隣り合って座っていた。


分厚い本を読むためでなければ、
わざわざ始発に乗ってまで座らなかったのにな、
と思いながら・・・。



ところで、言い忘れるところだったけど、

『黒い家』と『悪の教典』の大きな違いは、
前者が、サイコパスを、
あくまで「外面」からの視点で描いたのに対し、
『悪の教典』では、
主人公であるサイコパスの「視点」でも描いていること。


ほんとに、
あっさりと、けろっとして、人を殺す、
その心理の過程を描いているのが、怖いし、うまい。


あと、主人公にとって脅威の存在だった
「園田教諭」の行動が、
結局は主人公の偽りの釈明・供述を補強する役割をしてしまうことになるなど、
小説としても、うますぎる。


初回なので、はりきって長くなった。
どうかご勘弁を。


次回からはもっとコンパクトにする・・・つもり。



それではまた。



不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

悪の教典 上
貴志 祐介 著


不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

悪の教典 下
貴志 祐介 著