徳川家康 弱者の戦略
感想
扉の裏には
『家康は最初から天下を目指したわけではなかった。
戦国一の激戦地域に生まれ、
頼みの今川義元はまさかの戦死、
織田信長との同盟は過酷を極め、
最強の信玄軍団には責められる。
家康の人生は厳しい選択の連続だった。
逆境に学び続けた「天下人」の実態に迫る』
とある。
この本は以下の五つの章からなっている。
はじめに――家康はどうしたのか!
第一章 「境目の土地」三河という運命
第二章 信長から学んだ「力の支配」とその限界
第三章 最強の敵・信玄がもたらした「共進化」
第四章 二つの滅亡 長篠の合戦と本能寺の変
第五章 天下人への道
今年の大河ドラマ「どうする家康」を見ていると、今まで自分が思っていた家康像とは、かなり異なっており、違和感を覚えることも多い。(ドラマであるから史実と異なってもよいとは思うが。。。)
たとえば、今川家での人質時代。
『いままでは臥薪嘗胆、苦難の物語として描かれることが多かったが、実は今川は若き家康の面倒を丁寧にみている』という。
私もそう思っていたが、
『元服の時には義元から馬やとてもよい鎧などももらっており、さらには今川一族の関口氏の娘をめとらせて、一門の扱いにして優遇している。』
それは、『今川の意図は三河の非織田化であり、今川化でした。』
『今川義元は、家康を「織田への鉄の防壁」として育て上げようとしていました。』という。
なるほど!
そして、桶狭間の戦い。
『むかしは京都への進出をもくろむ今川義元が、その途中で、尾張の信長に阻止されたという描かれ方をしていましたが、これは史実と異なります。
この時の今川軍の目的は西三河から熱田、半田といった終わりの東南部をとりあえず確保し、信長の居城を囲めれば御の字といったところでした。』
『今川の支配下にあった駿河国はおよそ十五万石、遠江国が約二十五万石で合わせても四十万石。
対して、尾張国は一国で五十七万石もあります。
・・ちなみに三河国は二十九万石です。
今川としては穀倉地帯の三河を抑えたので、さらに尾張東部や知多半島、特に熱田など豊かな港町の権益を奪い取って、銭の税収も増やしたい。
それぐらいがこの侵攻の本音で、今川義元は上洛戦をやっていたわけではありません。』
この話も、とても納得できた。(自国を留守にして、大丈夫か?と思っていたので。。。)
本能寺の変では
『武田家滅亡に際し、武田家の一門でもあった有力武将の穴山梅雪が信長、家康の軍門に下ります。
その時光秀は、穴山の口から信長に「内々の逆意が露見するのを恐れて」、つまり武田に通じていたと暴露されるのを恐れて、「取り急ぎ謀反心を起こされた。」というのです。
つまり、光秀は武田との内通を武田の一族である穴山に知られており、それが信長に伝わる前に先手を打った。』
これも納得できる話である。
その他、長篠の合戦の余談として
『激戦地帯だった二俣では大量の兵器が必要となったはずです。
そこで重要なのが鍛冶屋でした。
時は流れて、この二俣近くの鍛冶屋の家から生まれたのがホンダの創業者・本田宗一郎です。
偶然と言えば偶然ですが、いまの浜松の近くに多くのモノづくり企業が生まれているのは事実です。
それから、二俣城を徳川勢から守り抜いた依田家の一族にあたる家来の中に、手塚という家がありました。
手塚治虫の家です。
この戦いの中に身を置いた人々の子孫から、昭和を代表する人物が出てくるさまを想像するのも、歴史の愉しみの一つでしょう。』
三方を強国(今川、織田、武田)に囲まれている弱小大名だった家康がとらざるを得なかった行動、あるいは考えなどを豊富な知識を駆使し、わかりやすく解説されており、とても面白かった。