目の見えない白鳥さんとアートを見にいく
感想
本屋大賞ノンフィクション本の大賞を受賞したということで本屋に平積みされていた。(図書館で借りたけど)
盲人と美術館に行くってどういうことなのか?タイトルを見て、まずはそう思った。
表紙の裏には
『白鳥建二さん、五一歳、全盲。
年に何十回も美術館に通うーー。
「白鳥さんと作品を見るとほんとに楽しいよ!」
という友人マイティの一言で、アートを巡る旅が始まった。
絵画や仏像、現代美術を前にして会話をしていると
新しい世界の扉がどんどん開き、
それまで見えていなかったことが見えてきた。
アートの意味、生きること、
障害を持つこと、一緒に笑うこと。
白鳥さんとアートを旅して、
見えてきたことの物語。』
とある。
その横に
「カバーの裏面に風間サチコ《ディスリンピック2680》を掲載。
本書第9章を読んでからご覧ください。
とあるのだが、図書館の本は表紙がのり付けされてて、みることができなかった。。。。(買えよ。。。)」
面白かった。
ただの美術館めぐりではない、美術鑑賞ではないものが、白鳥さんとの行動にはあり、筆者はそれを通して、いろんなことについて、考えを、想いを巡らせている。
その想いの広がりがとてもいい。筆者の暖かい人柄が伝わってきて、読んでいて気持ちがよかった。
そもそもなぜ、白鳥さんが美術館に行きたかったのかというと、
「他の盲人がやっていないことだから」らしい。
しかし、時を経てみれば白鳥さんが美術に出会うことで起こった変化は、何も彼自身のことにとどまらなかった。
彼という存在に触れた人たちの意識や人生もまた変わり、静かな湖面に立つさざ波のようにスーッと遠くまで広がっていた。
筆者も『最初は、作品のディテールを言語化することで、自分の目の解像度が上がるような感じがした。
そして、目が見えない白鳥さんと私がお互いがお互いのための装置になったみたいで面白いな」と感じた。
せっかくだからもっと一緒に作品を見れば新たな発見があるだろうと思った。
実際に発見は多かった。
私たちは、白鳥さんの見えない目を通じて、普段は見えないもの、一瞬で消えていくものを多く発見した。
流れ続ける時間、
揺らぎ続ける記憶、
死の瞬間、
差別や優性思想、
歴史から消された声、
仏像のまなざし、
忘却する夢ーーー。
そのゆっくりとして旅路の道中で、幾人もの人がこの美術鑑賞というバスに乗り込み、流れ続ける景色を一緒に見てきた。
一緒に作品を見る行為の先にあるものは、
作品がよく見えるとか発見があるとか、目が見えないひとの感覚や頭の中を想像したいからではなかった。
ただ、一緒にいて、笑っていられればそれでよかった。
ものすごく突き詰めれば、それだけに集約された。』
いいね! (≧∇≦)b
その他にも、心に残る話がたくさんあった。
『「白鳥さんは『見えない人』と『見える人』の境界線を飛び越えたからこそ、楽になって、心地よい場所を見つけることができたんだね。
「うん、確かに。
知らない世界に行くときってちょっと怖い。
でも、
その怖さとワクワクはセットなんだ。
そう考えると、不確かさがないところにワクワクはないのかな。
確かな世界にずっといたら
居心地は良くても
人生としては面白くないかもねぇ。」』
『時代や社会の動き、変わりゆく常識やルールの中で、常にアウトとセーフは激しくせめぎあっている。
例えばバスに乗ること一つをとってもそうだ。
バスでは車いすやベビーカーをたため、迷惑をかけない範囲で利用せよ、助けてもらったら感謝せよ、と考える人もいるが、そもそもその前提がおかしい。
公共交通機関であるバスにはだれもが堂々と乗っていいいはずで、それは交通権として憲法が定める基本的人権の一つである。
それなのに、なぜかこれをマナーやルール、感謝や思いやりの問題にすり替える議論がいかに多いことか。
いやいやいや、これはそもそもアウトなんかじゃなくてセーフだし、むしろど真ん中のストライクなんですよ、と主張しないといけないこともまたおかしい。』
『「盲人だから人の何倍も努力しなければならない、助けてもらったらありがとうと言うんだよ」と教えられた幼少時代の白鳥さんはじゃあ、目が見える人は努力しなくていいの?そんなのずるい!と感じた。』