先週ロスアンゼルスのRivera County Clubで行われたアメリカプロゴルフ男子ツアーのNotrhern Trust Openの最終日に行ってきた。 毎年2月の第3週に行われるのだが、雨の少ないロスアンゼルスの雨季真っ只中の時期で、いつも天気が悪いような気がする。 今回もご多分に漏れず、第1日~3日は天気が不安定で、この時期には珍しく雷雨まで降った。 ロスアンゼルスでゴルフを見に行くのに、雨なんて嫌だなあ~と思っていたけれど、最終日はいいお天気、心配したほど寒くもなく、やっぱりロスアンゼルスだ~と思った次第です。

スポーツ好きの私、主なスポーツはだいたい観に行っているが、プロゴルフは大昔、まだ岡本綾子がアメリカツアーでプレーしていた頃に女子プロを観に行っただけ、男子プロは観たことがなかった。 女子プロを観に行ったころは、ゴルフはやったことがなかったし身近にもする人がいなくて、ただなんとなくプロのスィングとか球筋ってすごいなあ~と感心したのと、女子プロの体格(何しろ腰周りが大きい!)と肌の汚さ(白人は全身そばかす、日本人は日焼けで真っ黒)に圧倒された。 その後、せっかくロスアンゼルスに住んでいるのにやらないともったいないということで、同年代の子供がいる友人とゴルフを始めて、何だかんだ10年以上、時間、お金、体力をかなり費やした。しかし一向に上達せず全くゴルフのセンスがないことを自覚、仕事を始めて自然消滅的にやらなくなった。 ゴルフに費やした時間で何か勉強すればよかったと思わないじゃないけれど、あの頃に私は子供に英語と日本語を勉強させることを最優先していたので、自分まで知的活動する余裕はなかったのだ。

今回、夫がちょっとしたコネで優待券みたいなチケットをゲットしてきて、超~exclusiveなRivera Country ClubのClub Houseにも入れるということで、それも楽しみだった。 ちなみにここはイチローが極秘結婚式を挙げたところです。 ゴルフ観戦、一体何を持っていったらいいの?と思ったけど、チケットの注意書きに携帯、カメラ、飲み物、食べ物、大きなバック等、ほとんどの物はダメ、と書いてあって、White Houseに近い(White Houseのツアーはお財布と傘のみOK、バックもダメ)規制だった。 

日本人なら当然、石川遼狙いだろうけれど、私はそれほど興味がないので、彼が予選落ちしてもそれほどがっかりはしなかった。 日本人で決勝ラウンドに残っていたのは池田勇太選手のみ、タイガーも出ていないみたいだし、一体ビッグネームは誰?と前夜調べてみたら、知っている名前はフレッド・カップル、V・J・シン、フィル・ミケルソンぐらい、あんまりパッとしないトーナメント?っていう感じだった。

当日、最初のティータイムが8時半ぐらい、9時過ぎには指定された近くの高校の駐車場に車を止め(これも優待券のおかげ)住宅地抜けてゴルフ場へ着いた。 入り口に設置されているトーナメントの歴史を紹介している大きなパネルの中に、石川遼の写真があって2009年に17歳でPCAツアーに初参戦と書いてあった。このゴルフ場、オーナーは日本の会社だものなあ。 思ったよりも荷物検査は厳しくなく、自己申告っていう感じ。 こういう場であんまり厳しくすると信用していないのか、と嫌がられるからなあ。 

ゴルフの見方は二通りあって、ひとつのホールに留まって次々に来るパーティのプレーを見るか、好みの選手につくか、しかし、最初から丸一日いるつもりのなかった我々は、とりあえずインスタートのミケルソンを追いかけることにした。10番ティーに現れたミケルソン、臙脂のシャツに黒のパンツ姿がカッコイイのなんのって。 一時期太っていたこともあるけれど、背が高いのはもちろんのこと足が長くて姿がいい。最終日、インスタートということは全く調子がよくない、ってことだが、ギャラリーからの声援も格段に大きい。 キャディがフィルよりももっと背が高く、これまた結構カッコイイ。 (一体何を観にいっているんだ?と突っ込まれそうだが・笑) 私、元々ミケルソンは好きなゴルフ選手なんだけれど、かっこよさは予想以上で、彼を間近に見られただけでも来た甲斐があったというものだ。 

ミケルソンを12番ぐらいまで追いかけて、その後10番のグリーン周りのスタンドに戻って池田勇太を待つことにした。 圧倒的に白人が多いPCAのプロゴルファー、とにかく背が高い。 平均身長は優に180センチは超えているのではないか。 足が長く、当然腕も長い。 そんな中で日本人選手って、相当しょぼく見えるのではないかと心配したけれど、池田勇太、思ったよりもスラッとしていて下品な感じがしなかった。 ウエアも全体が黒、片袖が鮮やかな赤でそれがアクセントになっていたなかなかよかった。 しかしながら、キャディ君が池田よりも背が低くて、あの中じゃ高校生にしか見えないかも。 ついているマスコミや日本人ギャラリーが余り多くなく、石川が予選落ちしたので皆さんガッカリ? 私はプロスポーツ選手は池田のようなやんちゃ坊主タイプのほうが好きなんだけど。 ちなみにこの10番、315ヤードでパー4、このコースで一番難しいホールだということを翌日のLA Timesの記事で知った。 池田はパーで切り抜けていたよ。 

ミケルソンと池田を見たし、朝抜きで来たのでおなかがすいたということでクラブハウスに向かうことにした。 そうしたらクラブハウス前の2番グリーンにちょうど上位選手たちが来るタイミングで、V・J・シンとフレッド・カプルスを見た。 V・J・シンも背が高くてハンサムですごーくカッコイイ。 フレッド・カプルスはそれほど背は高くないけれど素敵、応援の声がひときわ大きかった。 やっぱり皆ビックネームが好きだ。 確かにスター選手って、オーラがあるというか、華がある。 しかしながら、ミケルソン、シン、カプルスってかなり前からビックネームだけれど、ということはPGA、次世代のスターが育っていないってことか? 優待券がないと入れないクラブハウス、当然ながら白人が多い。 子供も沢山いて、こういう世界ってあるんだよね、と思う。 期待していた?ランチはたいしたことがなかったけれど、テラスに出ると1番ティが見下ろせて、ここで池田勇太を見て帰ってきた。 

総合的な感想: 今回はゴルフの経験があって観戦したので、レベルは全う違うにせよ、わかる部分が多く面白かったし、やはりプロってすごいなあ、と思った。 そしてゴルファーたちの打ち方が思ったよりも軽いのは意外だった。 体格のいい選手ほど余裕ある軽い打ち方をしている。 クラブの進歩も関係しているのだろうか。 そしてここで日本人が戦っていくのは大変だろうなあ。 体格とか技術的なことだけでなく、いろいろな意味で。 English Speakingの選手、キャディは結構リラックスした雰囲気でよくしゃべっている。 ゴルフってそういうスポーツなんだよね。 そんな中に英語が全然できないのにもかかわらず、マスコミだけは沢山くっついて来る日本人選手はかなり目立つと思う、 決していい意味じゃなくて。 今回のトーナメントも予選ラウンドでは日本人選手3人が組まされていたけれど、はっきり言って日本人をまとめたほうが都合がいいからだろう。 やっぱり若いというか子供のときからアメリカ社会で育つ選手が出てこないと本当の意味で参加はできないのでは。 女子ほどじゃないだろうけれど、アジア系では韓国人選手ががんばっている。 で当然韓国人ギャラリーも多い。 韓国人のゴルフ好きはゴルフをやっていた頃からわかっていたけれど、どうしてなんだろう? 韓国人気質ってゴルフには合わないと思うのだが。

ランチが大したことなく疲れて甘いものが食べたくなったし、久しぶりにWestsideに来たので帰りに↓に寄った。ここは食べるためにわざわざ時間とエネルギーを費やすのは嫌がる夫が「わざわざ」行ってもいいという数少ないお店。
http://www.amandinecafe.com/
ここのタルトは私の中ではLAで一番、お目当てのキャラメルバナナが売り切れていたのはガッカリだけれど、イチゴのムースタルト、美味しかった! そしてこれもLAで一番美味しいパンと思うカンパーニュは最後の1個が残っていてラッキー。 やっぱりAmandineは美味しい!!

中川右介著  幻冬舎刊  2月11日

編集者であり文筆家の中川右介氏が没後40年に合わせて、三島由紀夫が割腹自殺した昭和45年11月25日当日に文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人がどこで何をしていてこの事件に接したか時系列で再構築したもの。週刊朝日の書評で紹介されていて面白そうだったので読んでみた。

三島由紀夫とどのような関わりがあったかによって語っている内容も違うが、高度経済成長期の昭和の真っ只中、既に鬼籍に入った人も多いが出てくる著名人たちがあのときにこんなに若かったのだ、というのが第一印象。 そして今はなき大物たちが現役バリバリの全盛期だったのだ。 三島と距離が近かった人たちがショックを受けたのは当然であるが、この事件で結果的に三島の著作の売り上げが伸びたことから、三島を自己宣伝の天才では、という著者の分析が面白い。 それから情報伝達方法が今と全く違うことも興味深かった。 もし三島が今の時代で同じことをしようとしたら、どのようにITを使ったのだろうか。 

私はこのとき中学1年生で事件のことは覚えている。 印象に残っているのは介錯されて切り落とされた首が転がっている新聞写真と、この事件の前に週刊朝日に楯の会の制服を着た三島が腹切りをしようとしているイラスト(山藤章二のブラックアングルが始まる前、誰が書いたのか全くわからない。)が予言めいていてことが話題になったことだ。 三島の作品はまだ読んでいなかったし、三島がどんな本や台本を執筆していたのかも知らなかったわけで、だからこの事件が意味するところも全くわからなかった。 この本を読んで、当時高校生になっていた人はそれなりに感じるところがあったようで、私ぐらいの年齢の人間が三島の割腹自殺をはっきり覚えている最後の世代だろう。

歴史の中である事件が起きた一日を切り取る手法はなかなか面白く、三島という人物よりも面白かったぐらいだ。 三島の著作は高校生の頃に金閣寺を読んだのではないかと思うのだが、ここ数年では映画がらみで「春の海」を読んだだけ。 決して読みやすい文章とは言えないのに頭にすんなり入ったという感覚が印象的だった。


今、話題の映画。 アメリカでは去年の10月に公開されていてDVDが発売中。 公開時から興味はあったけれど、映画館で字幕なしじゃ絶対にわからないと思い、見るならDVDが出てからだなあ、と思っていた。 今日は仕事が休み、いつもは水曜会と称して仲のいい友人たちとお茶をしているのだが、今日は欠席者が多くてキャンセル。 Costcoに買い物に行ったらThe Social NetworkのDVDを見つけてゲット、いつもはDVDを買ってきてもなかなか落ち着いて見る時間がなくて数ヶ月後に見たり、ひどいときにはまだ見ていなかったり・・・ 今日は帰ってきて即見ました。 

とにかくせりふが早口、CCで英語字幕を出して見るのだけれど追いついていくのが大変。 Facebookはマーク・ザッカーバーグがハーバード在学中に友人を作るために作った、ということしか知らず、こんなことがあったのか、というのが率直な感想。 映画は事実の40%ぐらいと言われているので、どこまでが実際にあったことかは?だけれど、仲間割れとか訴訟があったことは事実だろう。 

Facebook誕生の過程もさることながら、ハーバードの様子、東部アイビーリーグの学生たちの強烈なエリート意識が印象的だった。子供たちの同級生でもハーバードやエールなどアイビーリーグに進学する子は若干いるが、高校ではダントツにできる子達だ。 アメリカの場合は勉強だけでなく、スポーツ、芸術、生徒会活動すべての面で秀でているということ。 ハーバードやエールはそういう生徒ばかり集まっているし、その上ウィクルヴォス兄弟のように名家出身というのもゾロゾロいるのだ。 ウーン、やっぱり別世界だし、アメリカを動かす人材はここから出てくるのだろうなあ。 ここで生き抜くのはそれはそれで大変だ。 ザッカーバーグもはみだし者で、決して人気者ではなかったのだ。

あと、ザッカーバーグをシリコンバレーの投資家たちに紹介しようとナップスターの創始者、ショーン・パーカーが「これからはカリフォルニアだよ。」と強烈に誘う シーンも私にとってはインパクトあり。これがイーストコーストからのカリフォルニアのイメージかと思った。 カリフォルニアと言ってもスタンフォードがあるシリコンバレーなのだけれど。

ザッカーバーグがFacebookをスタートした2003~2005年はうちの子供たちがちょうど大学に在学中、それまでSNSと言えばMyspaceだったのが、今はFacebookだよ、と言っていたのをよく覚えている。 初めは大学で学生に与えられる.eduがついたメルアドを持っている人じゃないと入れなかった。 その後、加入者からのお誘いがあれば入ることができるようになり、(Gmailも最初はそうだった)最終的には誰でも入れるようになっている。 私は自由に加入できるようになっても自分からは入らなかった。 子供たちに嫌がられるのではと思ったからだ。 結局子供からお誘いがあり、基本的に英語でやっている。 子供たちとその周辺の動向をチェックするのが主な目的で、自分から積極的に友達作りや旧友を探すことはしていない。 Facebookは実名でやらないと意味がないと思っているので、ネット上で唯一自分の情報を公開している。 私の中では、Facebook-英語ー実名/Twitter, Blog-日本語ーハンドルネームという線引きがはっきりある。 この線引き、あまりに日本人的で自分でもおかしくなるぐらいだが、この区別がcomfortableなのだ。 この映画の影響もあって日本でもFacebookが注目されているようだが、日本のネットの匿名性とFacebookは相性が悪い。 けれど、ここまで大きくなったFacebook、日本人もそろそろ匿名から脱しないと、自由世界で置いてきぼりにされるのでは。 規制が強固な中国などとは別の意味で孤立しそうだ。

エンターティメントとしては事実に反していても構わないと思うが、Facebookについてはもっと真実を知りたいので、いずれ「フェイスブック 若き天才の野望」は読むつもり。  映画制作にあたってザッカーバーグ自身は全く取材に応じなかったというが、1月29日のSaturday Night Live にザッカーバーグ役のジェシー・アイゼンバーグがメインゲストとして出演した際に、飛び入りで出演している。マジ、この二人、初対面だったらしい。 ザッカーバーグは映画の感想を聞かれて、interestingと答えている。いうことは彼、この映画を否定はしていないのだなあ。 初めてザッカーバーグを見たけれど、既に世界で一番若いBillioneaと言われているだけあって、オタクとかナードとは程遠い、貫禄さえ感じる雰囲気だった。

ここ数年、本当に映画を見なくなっていて、毎年1~2本がいいところ。 私のノンフィクション好きは映画にも反映されていて、結局実話をベースにしたものしか見ていない。The Queen, Julie &Julia、そしてこれ。(例外はToy Story 3) その流れからいくと、The Socieal Networkとオスカーを争っているKing's Speechも要チェック。DVDになったら見ようかなあ。 主演のコリン・ファースは好きな役者だし、英国の王室ものは格調高いのに、ここまでやるかというシビアさもあって面白いから好きなのだ。

内田樹著  文藝春秋刊  2月5日

日本辺境論を読んで、街場のメディア論もゲットしたのだが、アメリカに住んでいるのだから、まずこっちと思ったわけです。アメリカは無から作られた理想を目指した国家、という基本的考え方は日本辺境論につながっている。 面白い視点だなあ、と思った点を列挙してみる。

アメリカは極端に戦争での犠牲者が少ないにもかかわらず、自国民の犠牲を理由に他国を公的する。 第5章
→言われてみると確かにそうだ。 数字を比べれば明らかなのに、今までそういう指摘をあまり聞いたことがなかった。

アメリカは子供嫌い文化ー自分の権利を侵害するものに対する抵抗権は親子の間にも成り立つーの上に成り立っている。 第6章
→ アメリカで子育てをして、アメリカの親子関係と日本の親子関係は根本的に違うということは感じていたが、「子供嫌い」とはっきり言われると、えっ?と思う。 しかし、そういう視点に立って考えると腑に落ちる点はある。 子供の権利や意思を重視しすぎる傾向にあるのも結局そこにあるのかも。 子供に対してのリップサービスもその裏返し? 

アメリカで、下層の人たちに肥満が多いのは、低所得のために自己管理能力がなくきちんとした食生活ができないからではなく、差別されていることを示す社会的記号という解釈 第8章
→ 理論としてはわかるが、本当にそうだろうか。 肥満の低所得者には質の悪い食事を大食いするのにそういう自覚があるとは思えない。 逆にワークアウトに異常に熱心な社会の上層にいる人たちには、スリムなボディを維持することが社会的ステータスという意識は大いにあるだろうが。

アメリカの政教分離は、大統領がキリスト教に基づく統治をするため。統治の基本となるアメリカのキリスト教は、建国時の清教徒から一度衰退し、福音を中心とした活動で復活、多くの牧師を養成するために教養や思想よりも、情感に訴え世論操作にたけた人間に重きをおくようになる。 第9章
→これを読んだときに真っ先に思い浮かべたのがサラ・ペイリン。 オバマは全くその逆。 オバマに対する逆風は人種問題だと思ってきたが、それ以外にキリスト教福音派のマジョリティから見る教養、思想のレベルの違い、つまり自分たちよりもずっと教養、思想のレベルが高い、だからオバマに大きな違和感を感じるのだろう。 Tea Partyとかペイリンはその象徴。 

一昨年の大統領選に絡んでアメリカ論をいろいろと読んだが、アメリカ研究を専門とする人はアメリカが好きなわけで、客観的でいながらアメリカへ希望と願 望があるが、内田氏はアメリカ研究を専門としていない分、客観的というか、視点は面白い。 あと、あとがきに書いてあるように、時間が経っても読むに耐えうるものを書きたいという考え方には大いに賛同する。 そういう意味ではこの本、書かれて5~6年後の今、読んだのはタイムリーだったのかもしれない。


岸博幸著  幻冬舎刊  1月30日

発売して間もなくゲットしてそのままになっていた本。 こういう本は時間が経ってしまうと読む意味がなくなるのでそろそろ読まないと、と思ったわけ。 2010年2月出版だから、Google全盛期、今話題のFacebookはまだまだっていう感じだが、1年経った今、状況は変わっている。 そういう意味では今読んだこと、それはそれで意味があるかも。 Googleを筆頭とするプラットフォームがコンテンツを食い荒らしている、そしてそのプラットフォームはアメリカの企業で独占されているというのが著者の主張。 確かにそうなんだけれど、GoogleやFacebookの創業者と帝国主義という言葉に違和感がある。 著者の言うとおりジャーナリズムや文化の質を維持するためにコンテンツフォームを守る必要があるのは当然だが、創業者たちに帝国主義的な思考があるのだろうか。もちろん著者も創業者たちが意図しているとは思っていないだろうが、この言葉には違和感がある。 GoogleもFacebookも創業者が意図した範囲を超えて社会を変えてしまっているような気がして、根本的に社会構造が変わって、コンテンツの価値の評価そのものも変わるのではないだろうか。 それくらい今の世の中、変動している。 それにしても違法アクセスはジャーナリズムや文化を衰退させる、という言葉は耳が痛い。