細い細い、白い月が浮かんでいる。夜明け前の空だ。
ぎし、ぎし、ぎし、と雪を踏みしめる音だけが聞こえる。音は響いたりしない。夕べ降った雪が全ての音を飲み込んでいるようだ。
金属のような硬質な空気。口元にまで巻きつけたマフラーの隙間から、呼吸をするたびほわほわと白い靄があがり、すぐ立ち消える。
その静けさを裂くように、轟音と軋む音。除雪の重機が遠くを走る音だ。
住宅街はまだ眠りから醒めてはいない。この世に自分しか起きていないような、静か過ぎる夜明け前。目指すのは始発のバスの来る、小さなバスターミナルだ。
重いエンジニアブーツが、相変わらず雪を踏みしめる。ぎし、ぎし、ぎし。
町外れの住宅街は、どこか昭和の名残がある家が並んでいる。こうして灯りの消えた家の建ち並ぶ中を歩くと、この世は終わってしまったような、そんな錯覚さえ味わえる。
ひとりだけ。なんだろう、ぞくぞくするほど心地がいい。
もう一度、空を見上げる。
細い月と、それに寄り添う小さな星たち。ほわほわと、自分の吐息が白く立ち昇る。
バスターミナル、とは言っても終点のバス停なので、バスの転回スペースと、バス停がぽつんとあるだけのものだ。バスの来ない時に見ると、雪原にバス停が取り残されたように佇んでいるように見える。
いつもなら、ここで始発に乗るのは自分くらいなものだ。
昭和の時代生きたこのあたりの住人は、朝こそ早そうに見えるが、仕事を持つ人は少ないらしく、せいぜい買い物か病院通い程度にしかバスを使わないようだ。ここから2つ3つ、次のバス停からは学生やサラリーマンが乗り込んでくる。ろくにスーパーもないようなこの辺りには、若い世代は住みたがらないのかもしれない。
ぽうっと照らされた、バス停の灯りの下に人影があった。小さな、子供のようだった。
ぎくりとして、一瞬立ち止まった。その影はこちらに気付いたようだ。
白いダッフルコートに、白いニット帽の、小学校に入るかそこらの子供のように見える。
「おはようございます」
男の子だろうか?その子はこちらを見つけて、会釈した。突然すぎて、声が出ない。どうにか頭だけをひょこん、とこちらも下げた。
ぎし、ぎしと足音を立てながらバス停へと近づいた。バス停の前には、アクリル板を組み立てたような待合所が、小さいながらも立っている。この寒い中、この子はそこへも入らず、立っていた。
青白い蛍光灯のあかりと、雪明りの中、この子の顔は白く見えた。瞳は黒く、くるりと大きい。寒さの中だというのに、頬も鼻も、赤く染まってはいなかった。
真夏であればもうとっくに明るくなっている時間ではある。しかし、真冬の今は夜とも呼べる時間で辺りはまだ暗い。
この子は、ここで何をしているのだろうか。
「君、何してるのこんなところで」
バス停のポールを挟んで、その子と並んだ。
何って、とその子はこちらを見あげた。
「待っていたんです」
そうだろうな、と自分が馬鹿らしく思えた。バス停でバスを待つのは当然で、自分もそうなのだ。妙な事を訊く大人だと、警戒されてしまうだろうか。
「早いんですね、朝」
どう見ても小学校の一年生か、幼稚園の年長くらいなのに、随分としっかりとした口調だ。
「君もさ」
「ふふそうですね」
どこか大人な笑い方だった。近所の子なのだろうが、こちらは最近こちらへ引っ越していたばかりで、知る人もいない。こんな朝早くからバスを一人で待つなんて、なんだか訳がありそうなものだ。
祖母の残した家に引っ越したのは、先月の事だった。朝早い仕事なのに職場が遠くなるのは頭が痛かったが、生前のうちに孫に負担がかからないようにと配慮した上で自分に残してくれた家だったので、ありがたく住む事にしたのだ。
両親はすでになく、兄弟もいないこちらとしては唯一の肉親だった祖母。しっかりものだったが、倒れてそのままあっけなく逝ってしまった。
小さな古い家は、自分ひとりには広すぎた。それでも気楽に過ごせるのはいいものだ。どうせ仕事もしているのだし、近所に知った人がいなくても、それ程苦にはならない。
「こんな朝早くに、どこへ行くの?」
それとなく訊いてみた。
「ぼくね、探していたんです」
ぼく、というのを聞いて、そうかこの子は男の子なのか、と納得した。小さくまとまった顔だちは、女の子のようでもあり、男の子のようでもあったのだ。
「探していた?」
「はい。もう長い事です」
長い事とは、子供は面白い事を言う。この子の長い事とはどのくらいの時間を言うのだろう。そう考えたら、無意識に顔が笑っていた。
「長い事って、何を探していたの?」
「質問ばっかりですね」
少年は不思議そうに首をかしげながらこちらを見あげた。
笑いながら言ったのが、馬鹿にしているように思われたか。
「ごめんね。怒ったかな」
「いいえ。そんなことないです」
穏やかに少年は答えた。風もない、晴れた日の早朝は冷え込みも厳しい。震えが来るほどの気温だが、彼は寒そうなそぶりすら見せない。こちらは寒さに首をすくめているというのに。
「ここで待っていれば会えるかなと思っていたんです」
「え?」
さっき彼は待っている、と言った。それはバスではなかったのか。
「だってほら、こうして会えたでしょ?」
少年は同意を求める様子はないが、何かを確認するかのようにふんわりと笑った。逆にこちらがぞくりとするような笑顔だった。
「探したんですよ、随分」
彼の言葉に、心臓が急に活発に動き出していた。全ての音を吸い込んだ冬の空気に、その拍動が響き渡るのではないかと思う程に。まるで身に覚えがない。この子とは初めて会うはずだし、この近所の事に、自分は全く明るくないのだ。そして、彼は確か、長い事探していたと言わなかっただろうか。
長い事、探していたとはどういう・・・
「覚えてないのは無理ない事です。僕と会ったのは、随分昔、そう貴方がまだ子供の頃ですから」
「子供の頃って、それじゃあ・・・」
もはや寒い事すら忘れてしまいそうだった。子供の頃に会っていたというなら、この子は一体、今幾つだというのだ。その小さな身体で、こちらを見上げている。あどけなささえ伺える、くるりと大きな瞳。青白い灯りの中で、真っ直ぐに自分を見ている。
その瞳に、自分の中の何かがぴくりと反応した。
「もう忘れてしまいましたか、この辺り、昔は畑ばかりでした」
「・・・」
亡くなった祖母は、祖父とともにこのあたりで農家をやっていた。うちの父が後を継ぐことはなかったので、早々に畑だった土地は売りに出され、小さな家がそこを埋め尽くしていった。
「のどかでした。春には蝶を追いかけたり、秋の収穫期を終えたあとは、乾いた土のにおいがしていたものでした」
農家だったのは何もうちの祖父母だけではない。このあたりは農家や酪農家が多くて、確か自分が小学二年くらいのころまで、養豚場などもあった。祖父母の畑が住宅に変わり始めた頃、他の畑もなくなっていった。
畑の多かった頃。ひと月に一度くらいの頻度で、祖父母をたずねていた。確かに畑を舞う蝶を追いかけたり、あぜに咲く花を摘んだり、それが楽しかった。
祖父母はグリーンアスパラを作っていた。収穫の時期には父も畑を手伝っていたような記憶がある。柔らかな土の香りが、ふと、思い出される。鍬を振るう祖父母の真似をして、あちこちを掘り起こして遊んでいたものだった。
「で、でも何故君はそんな事を?俺の何を知っているっていうんだ?」
少年はふ、と目を細めた。
「僕たちは同じ年です」
「はあ?」
「覚えていないでしょうけど、そうなんです」
この子は、いかれているのか?暗闇の中に、白く鈍く浮かんでいる、バスの転回場を眺めている少年の横顔。賢そうな、涼しい眼。子供特有のふっくらとした頬。きゅっと形よく閉じられた口元。気がふれているとは思えない。しかし、言っている事の内容がどうにもかみ合わない。こんな子供と、30代前半に差し掛かった自分がどうして同じ年だといえるだろうか。こんな朝早くからバス停にいること自体不自然といえば不自然だ。
だれかと人違いしているのかもしれないとも考えたが、少年と同世代なら、小学生がいいところのはずだ。
このあたりが一面畑だった頃の事なら、誰か昔からこの辺に住んでいる家族に聞けば分かる事だ。しかし随分前から彼は探している、と言っていた。しかも、先月からここに住み始めた自分のことを。
同じ年頃の知り合いなんて、このあたりにはいないはずだが。
小さな頃は、時々訪れては遊んでいったものだったが、畑が住宅地に変わり始めた頃、父の転勤で一度、遠方へと引っ越している。再びこの街に戻ってきた時にはもうすでに中学生で、祖父母とは年に1、2度会う程度になっていた。
そのため、この近所に知り合い自体があまりいない。両親なら、知った人もいたのかもしれないが。
「よく畑仕事の合間に、お弁当を食べていましたよね。僕は覚えています。いつも、同じところに敷物を敷いて、おばあさん、おじいさん、そして貴方のお父さん、お母さん。楽しそうでしたね」
息が震えるのは、寒いせいだろうか。それとも、この奇妙な少年の話のせいだろうか。
ゆっくりと吐き出す息が、白くゆらゆらと消えていく。消えていくそれとは逆に、幼い頃の祖父母との休日が、ゆっくりとよみがえってくるのを感じた。
畑の片隅に、納屋があった。小さな掘っ立て小屋のようなものだったが、そこに農作業に使う様々な道具が置かれていた。鍬や鎌、それらを研ぐ砥石、スコップや柄杓・・・今はなくなってしまったが、その側に沢があったので、蚊が多くて、それに刺されないようにと、古手ぬぐいを硬く撚ったものに火をつけて、いぶしながら昼食を取った。そう、その納屋の前でいつも。
どうしてそこで昼食を取っていたかというと、夏の暑い時期などは畑の周辺に日陰がなくて、ここなら丁度・・・
丁度、日陰があった。
柔らかな木漏れ日の下、ほらここは涼しいから、ここで休みなさい。
そんな祖父の言葉が遠く、耳の奥で響いた。
鼻の奥までつうんと痛くなる冷たい空気を、早まる呼吸を押さえ込むように大きく吸い込んだ。
「君は一体・・・誰なんだ?どうして、あれを知っているんだ?」
「貴方が生まれる数年前、この地域にあったりんご農家が離農し、その畑はあっという間に更地になった。そのとき、貴方のおじいさんがりんごの木を二本、分けてもらったんです」
そうだった。その木は祖父の畑の片隅、納屋の側に植えられた。しかしそのうちの一本は植え替えに失敗して枯れてしまったのだ。
「りんごの実は、異なる種類のりんごの木を二本植えないと受粉できないのでなる事はありません。でも一本が枯れてしまったので・・・」
「それで俺が生まれた年に、カイドウを・・・」
少年はくるりとした瞳で見上げた。幸せそうにふっくらと笑いながら。
「まさか君は、カイドウなのか?」
少年は何も答えない。ただ花のように微笑むだけだった。
りんごは西洋りんごと呼ばれる大きな実のなるもの、つまり普通にスーパーなどで売られているものは自家不稔性といわれ、1本だけ木を植えても実はならない。花粉の相性がいい異なる品種の木を一本ずつ、植えないと結実しないのだ。
勿論、自家結実性と呼ばれるものは1本だけ植えていても自分の花粉で受粉し、実をつける。しかしそういったりんごはアルプス乙女のような小さな実をつけるものが多い。
祖父が譲り受けたりんごの木は、生産農家の木だ。当然自家不稔性だった。1本が枯れてしまった時、祖父はなんとかまた実をつけさせられないかと考えた。
そこでカイドウを植えたのだ。
海棠りんごともよばれる、観賞用のりんごの木である。桜に似た、薄紅色のふちどりを持つ白い花が咲いていたのを覚えている。さくらんぼような小さな実がなり、食べられるが甘くはない。それでもその小さな実が鈴なりになる姿は、花満開の頃とは違った愛らしさがある。
そしてカイドウと受粉の相性がいいりんごも当然ある。二種類の木を植えるといっても、何も両方とも大きな実をつける木である必要はないのだ。
祖父は俺が生まれた年に、カイドウの苗を植えた。せいぜい、1メートル少々の小さな木だった。しかし、木の成長は目覚しく、自分が記憶するカイドウは、見上げる高さだった。もっとも当時の自分の身長から考えると、それ程大きな木ではなかったのかもしれない。
記憶の中にあるのは、春に白い花がたくさん咲いて、それが見事に散った事。散った花びらが、白いじゅうたんのようだった事。
「俺を探していたって?」
こくり、と彼は頷いた。この子があのカイドウ?まだ信じられない。どうして人の姿をしているのだろうか。あの可憐な花をつける木が、どうして少年の姿に。しかもあれから何十年も過ぎている。そう、あれから。
「貴方は知らないでしょうけど、貴方のおばあさんは僕に、まだ植えられたばかりの頃からいつも、貴方の事を話してくれました。あの子は貴方と一緒に大きくなるのよ、って」
時々やって来る貴方を、僕はおじいさんたちと一緒に見ていました。少しづつ大きくなっていく貴方を、ずっと見ていくのだと思っていました。
「お母さんに抱かれていた貴方、よちよちと歩き始めた貴方、言葉を話すようになった貴方、畑を耕す真似事をするようになった貴方・・・僕にとっても、貴方の成長を見るのは楽しかった。この子と一緒に育っていくんだと思っていましたからね」
そう、それだ。この子があのカイドウなら、おかしなことがまだある。
「君は知らないと思うけど、おじいちゃんはカイドウを、いや君を家の庭に植えなおそうとしていたんだよ。畑を手放した時にね」
「そうでしたか・・・あのあと、おじいさんは僕のところに来て、切り株をじいっと眺めていましたからね。どう思っているのかまでは分かりませんでしたが」
少年は残念そうに目を細めた。
祖父母の手放した畑に、重機が入って地ならしを始めた頃だった。りんごの木は、近所の小学校に寄付する事になったため、早々に業者が来て掘り起こしていったという。
カイドウはすでに結構な大きさになっていたが、祖母の希望もあり、自宅庭に植え替える事にしていて、工事の業者にも話してあった。
しかし、肝心な現場に入った作業員にそれが伝わっていなかった。休憩の差し入れを持っていった祖母が気付いて、ことが発覚したのだ。
あっけなくカイドウが切り倒されてしまったのである。作業の邪魔になるから、という理由で。
業者は平謝りだったが、彼らを責めてももう切られた木は元には戻らない。まだ幼かった自分にはよく判らなかったが、祖父母にしてみれば様々思い入れのある畑を手放したのだから、その思い出としてカイドウを残しておきたかったのだろうと思う。
「君があのカイドウなら、ねえ、どうして君はそんな子供の姿をしているんだい?」
「えっ」
「それに・・・なんで俺の事なんて探していたんだよ。別に、いいじゃないか俺なんてさ」
少年は不思議そうにこちらを見た。その目は薄暗い中でも、美しく光っていた。
「まだあるよ。君はあの時切られてしまった。じゃあ今ここにいる君はなんなんだ?木っていうのは切られても、こうして生きているものなのか?」
例えば、幼い頃によく木登りしていた木が学校などにあったとして、すっかりそんなこと忘れて大人になったある日、突然「俺があの時の木だよ」と名乗る子供が現れたら。そんな事すぐに信じられるだろうか。
まだ信じてはいない。しかし、今となっては祖父母の畑にりんごとカイドウが植えられていたことなんて、知る人はいないだろう。少なくともこの少年は知っているのだ。言われなければこの自分でさえ忘れていた事を。
「また質問ばかり。でもいいですよ、一つずつ答えましょう」
少年はくすくすと笑った。なんだか子供に馬鹿にされているようで面白くない気もしたが、仕事を離れての誰かとの会話は、随分久しぶりのような気がした。両親が亡くなってから、一人暮らしは長かったつもりだ。その上友人達とも少し疎遠に、最近はなりつつあった。家が街の中心部から離れてしまったというのと、休日が平日に多い、というのが大きな理由だと思うが、やはり家庭を持つ友人が増えてきた、というのもあるだろう。
「僕が切られたのは秋のことでした。しばらくの間、畑の片隅に僕の切られた幹は放っておかれたんです。そのとき、近所の子供達が生っていた実を取っていったのです」
子供達はそれぞれ、その実を遊びに使いました。食べてみた子もいたし、ままごとに使った子も。
「そして、植えたら木になるのでは、と考えた子もいたのです。その子には同居しているおじいさんがいて、その人と二人で庭に実を植えたのです」
「まさかそれから発芽したって?」
「よほど条件がそろったのでしょうね。だから僕は生まれ変わったようなものなんです」
「だから、まだ子供だと?」
「そうなりますね」
町内会の役員をやっている進藤さんのうちに、僕は立っています、と少年は言った。
その人なら俺も知っていた。祖母が亡くなったとき、葬儀に来てくれた人だった。あの人がたぶん、カイドウの実を植えた人なのだろう。
「進藤さんのおかげで、僕は動けなくてもこのあたりのこと、案外知ってるんですよ。貴方の両親が事故で亡くなった事も、おばあさんが亡くなった事も、貴方が引っ越してきた事も」
少年の白い頬が、ふとカイドウの白い花に重なった。幼い頃不思議だった。蕾は濃いピンク色をしているのに、何故花が開くと白いのか。この子は、あの華美ではないが素朴な美しさを持つ、カイドウに似ている。風に散る花びらが、雪のようだった。毎年毎年、その景色を見られるのが、当たり前なのだと無意識に思っていた。記憶の中の、春の空の下で咲き誇っていた白い花・・・
「おばあさんが亡くなってしまったら、貴方は一人になってしまう。僕は心配になりました」
両親が亡くなった時、俺は成人していたし、仕事にもついて、自立しているといえばそうだった。それでも、親という存在が跡形もなく消えてしまうという現実は、受け入れがたいものだった。
カイドウの花が毎年春に咲いていたように、親というものは何時もそこにいるものだと何故か思っていた。頭の中では、親だって年をとり、いつかは死んでしまう事くらい理解しているつもりだったのに、いざ突然にそうなってしまうと小さな子供のように、信じられない、信じたくないと繰り返すだけになってしまっていた。
幼い子供なら、そうして泣き喚く事も出来る。でも、自分は大人なのだ。中身は幼子と同じでも、立っている位置は大人なのだ。
例えば、あの時カイドウが切り倒される事無く、祖父母の庭に植え替えられたとしても、台風などで倒れる事がなかったとは言い切れない。それと同じく、うちの両親だってそうなのだ。まだ若かったとはいっても、そこに接触事故の衝撃で跳ね飛ばされた車がぶつかってくる事があるなんて、誰も考えなかった事なのだ。
子供だろうと、大人だろうと、そんな偶然がとんでもない事になってしまう事は誰にでも起こる。信じられない、嘘みたいな出来事が、本当に起こるのだ。
だからこの子は、やっぱりあのカイドウなのだろうと、思えてきた。
「貴方のおばあさんが、僕に言っていた事が他にもあるんです」
ふわりと、思い出したように雪が舞い始めた。綿雪は、不安定にふわ、ふわりと舞い落ちてくる。
「私はそのうち死んでしまうだろうけど、木は人より長く生きることもある。だから私のぶんまで、あの子を見守ってやってね、と。あんたたちは幼馴染なんだから、と」
遠い記憶の、どこか色あせた赤茶けた景色の中に、こんな雪の様にカイドウの花びらは舞っていたような気がした。カイドウだけではない、りんごの花もあっただろう。どこかさびしいのに、それは美しい景色だった。
幼い頃の思い出を、語り合う人は俺にはもういなくなってしまった。自分の記憶にさえない位の昔の事を知っている人はもういない。
この幼馴染は、俺の赤ん坊の頃を知っている。祖父母を、父を、母を、知っているのだ。
「さっき言ったように、僕は進藤さんの庭にいます。よかったら、春に覗きに来てください。僕は今も、あの頃と同じく花を咲かせますから。秋には実をつけます。それだけが僕のできる事です」
雪は優しく、それでいて辺りを白く染め始めた。雪の中でも、少年はいっそう白い顔で話し続けた。
「何も出来ないけど、僕は貴方の幼馴染です。たぶん、一番古い。何も語ることのないただの木です。でも、僕は貴方を知っている。そしておばあさんと同じく、貴方を見守るつもりです」
「カイドウ・・・?」
少年の姿が、雪の舞う中に溶けていく。
「もう、この姿ではお別れです・・・僕は、もう戻らなくては・・・」
「ちょ、待ってくれ!まだ何も話していないだろ!」
彼の肩を掴もうとしたが、するり、と透き通っていくその姿の中を掠めてしまった。黒い大きな瞳が、悲しげに笑った気がしたが、本当はどうだったのだろう。
カイドウはそのまま、透き通っていくと、完全に姿を消してしまった。雪は激しさを増していき、ディーゼルエンジンの重い音が響いてきたのに気付いた。ゆっくりと、いつもの様に始発のバスがやってきたのだ。
カイドウ・・・目の前でバスが止まる。雪は風を伴い、さらに激しくなっていた。開いたドアから、バスに乗り込むと、ほわんとした暖かさが俺を包み込んだ。その暖かさに身をゆだねると、なんだかさっきまでの少年と会話した事が、単なる自分の妄想のように思えてきた。バスの外はさっきまでの晴空が、何かの間違いのように吹雪いていた。
軽い疲れを感じて、俺は目をとじた。
カイドウ、君は本当にいたのか?
なんだか自信がなくなっていた。
風が心まで温かくするような、初夏の香りさえするいい天気だった。真っ白だった世界は遠ざかり、緑と光の溢れる季節がやってきていた。
自宅から一丁離れたところにある、大きな一軒家の前に俺は立っていた。家の前には、手入れされた広い庭がある。
その片隅に、4メートルほどの高さの木が、白い花を咲かせていた。ズミ、とも呼ばれる、カイドウの木だった。白い小さな花は、桜にも似ていて、微笑むように咲いていた。
俺はその庭に入っていくと、その家の玄関に立った。『進藤』の表札が少し黒ずんでいる。
「ああ、あそこのお宅のお孫さんかい?」
「葬儀の時はお世話になりました」
「いや、それはお互い様だからね。で、どうしたの?」
「あの・・・その木なんですけど・・・」
俺がカイドウを指差すと、進藤さんは薄くなってきた白髪頭を掻きながら、ああ、カイドウね、と照れくさそうに笑った
「もしよかったら、一枝分けてもらえませんか?祖母に供えてあげたいんです」
あの、綺麗なんで、と俺はもう一言添えた。すると、進藤さんは申し訳なさそうに頭を掻き掻き困ったように言った。
「いやあ、あんたのおばあさんには言ってなかったんだがねえ、これは元々、おたくの木なんだよ」
あ、と俺は進藤さんを凝視した。
「その・・・子供の時にね、うちのじいさんとあんたの所のカイドウの実を拾ってきて植えたものなんだよ。だから、遠慮なく持っていってくれ。おばあさんに、ごめんねって伝えてくれや」
「あやまる事なんてないと思うんですけど」
俺が言うと、いやいや勝手に持ってきたもんだから、と進藤さんは苦笑した。
でも、あの少年の言っていた事は本当だった。このカイドウは、あの見上げていたカイドウの木だ。
それだけでいいのかい?という進藤さんにええ、と笑顔を返して、俺は3本の小枝を貰った。
腕の中に、白い花をつけた枝が、静かに息づいているのを感じた。大事にそれを抱えて、俺は家路をたどる。
秋になったら、俺もあの小さな赤い実を貰ってこようと思っている。上手くいくかどうかは分からないけれど、庭に植えてみようと思っている。そうしたら、あの子にまた、会えるような気がするのだ。
仏壇の前にそっと花を生けると、俺は何故だかすごくほっとした。こうしてこの花がここにあるのが、当たり前のように思えたのだ。
『ただいま』
風の音だろうか。あの色白の少年が、どこかで笑った気がした。