哲学の本ですが、とても分かりやすくて、何度も何度も読み返している本です。

 

自分を愛する、って一言でいうけれど、そもそも愛ってなんだろう?

「愛してる」って異性に言ったりするけど、時間がたって刺激が薄れてくると興味もなくなってきちゃうのはなんでだろう?

 

私は本当に不器用なので、外部からの言語化のインプットがないと自分をうまく見つけられないようです。

 

また最近、読み返したりしていたので、今の時点で理解できていると思う事をまとめてみます。

 

 

「愛」とは能動的な行為、技術である。

 

「恋」とは情熱であり、自分自身の商品価値と交換したいと思う「商品」を欲する感情(資本社会であるがゆえ)

商品としての価値は時代の流行やその時々の価値観によって変化する。

 

 

〇「愛する」という技術

 

愛する、という技術を習得するには、個人が生産的な段階に達している事が前提。

愛する、とは与えること。

与える事とは自分の持てる力の最も高度な表現であり、生命力の表現でありそれ自体が喜びである。

自分を犠牲にするという意味ではなく、自分の中に息づいているものを与える事。

自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみ。

自分の生命を与える事によって人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高める事によって、他人の生命感を高める。

与える事自体がこのうえない喜びになる。

 

愛にふくまれている要素

「配慮」・・・愛する者の成長と生命を積極的に気にかけること

「責任」・・・相手の精神的な要求に応じる、応じる用意があるという事

「尊敬」・・・相手のありのままを見て、唯一無二の存在であると知る事

「知識」・・・相手を知る事。相手に対する知識は表面的なものにとどまらず、相手の立場にたってその人を見る事ができたときにはじめてその人を本当に知る事ができる。

 

それぞれはお互いに依存しあっているが、この一連の態度は成熟した人間でなければ成しえない。

成熟した人間とは自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的に活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のこと。

 

人間というのは一つの奇跡であり秘密であるが、その秘密を知りたいと願う気持ちを「支配」もしくは「愛」の方法によって成し遂げようとする。

 

自分自身を信じれる者だけが、他人に対して誠実であれる。

自分自身の愛は他人の中に愛を産むことができる、と信じることが「愛に対する信念」となる。

信じるとは人の核心部分に人や生命の尊厳に対しての畏怖の念があると信じる事。

 

〇愛するという技術を身に着けるために

技術を習練するために必要な段階

「規律」・・・休みなく続ける事

「集中」・・・熱心に関心を持つこと

「忍耐」・・・性急に結果を求める人には技術を身に着ける事はできない

「最高の関心を抱くこと」

もしもその技術が一番需要なものと思えないならその技術を身に着けようとしてもせいぜい良質のディレッタントになるくらいで

達人にはなれない。

 

愛するという技術を習練するためにさらに重要な要素。

その技術そのものを学ぶ前に、ほかの関連のないように見える事をあれこれ学ぶ必要がある。

大工の見習いはまず、木を平らにする事を学び、弓道を学ぶものはまず呼吸法をならうように。

 

熟達したいと願う技術があるならば、自分の全生活をその技術の習練と関連づけなければならない。

 

 

以前、コーチングのカイリュウさんが「何が一番楽しいか」を聞かれました。

即答できなかったのですけれど、やっぱり私は「愛」を受け取ってもらえた時だなぁとおもいます。

間違わなかった自分がうれしい。

多少的はずれでも素直に喜んで受け取ってくださるお相手の方がとっても尊い。

 

私の人生目標は「愛する」事の達人レベルに達する事です。

道のりはいろいろ選択肢はあると思うのですけれど、

今は介護で関わった方達に人生いろいろあったけど、今日は楽しいからまぁいいか、って思っていただけたり

高校卒業して今から社会に飛び込んでいく息子に、いつか「産んでくれてありがとう!」って心から言ってもらえるようになりたい。

 

読んだ事のある方がいらしたら、失礼しましたm(__)m

学校で教材にしたらええのになぁ~と思う本、その①でした。