政治に関するニュースで、ここ何年にもわたって取り扱われてきたニュースに小沢一郎さんとその秘書が政治資金規正法違反に問われている事件があります。

小沢さんは、20代で小泉純一郎元首相らとともに衆院議員に初当選し、それ以後、田中派に属して、政界の本流を歩み、特に、長男を若くして亡くした田中角栄に目をかけられたこともあって、田中氏から直々に帝王学を学び、40代には自民党の幹事長となりました。

宮澤喜一元首相を総裁に選出する際には自身の事務所に総裁選出馬者が詣でて面接をするという"支配"構造が象徴的に伝えられました。(実際には、会談場所が確保できなかったため、小沢事務所となっただけのことですが、これをマスコミが象徴的に「小沢が面接した」と伝えたため曲解されることとなりました。)その後、55年体制が崩壊して発足した非自民の連立政権、自自公連立政権、民主党時代と一連の政界の動きの中で小沢さんは常に政治の中心に居続けました。

そのように政治・政局の中心に居続けた小沢さんを"アゲル"ことは検察にとってもマスメディアにとっても、この上ない"ネタ"であることに違いはありません。

現在小沢さんは秘書が2名逮捕されて現在公判中である以外に、小沢さん自身も一旦は、検察が不起訴処分としたものの、検察審査会が2度の審査を経て起訴議決し、裁判所の選出する弁護士によって起訴される事態になっています。



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私が政治のニュースに興味を持ちはじめた少年時代から、今に至るまでの30年近くの間、政治家がその権力を使って横暴に振る舞うこと、そしてそれを自らの企みのために使おうとする人達の犯罪行為が伝えられなかった時期はないと思います。

日本だけでなく、世界を見回しても、ここ数十年の間、そうしたニュースが消えていた時代はもちろんありません。



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昨今の政治家の犯罪に関するニュースで特徴的なのは、その犯罪の全貌を描こうとする主体に対して、さまざまな批判がなされ、信頼性に対する疑念が生じていることだと思います。

公訴権という強大な権力を独占している検察が、「存在しない」はずの「罪」を意図的に作り出してしまったこと。

マスメディアが公的機関からリークされる情報を意図的に選別して、犯罪にかかわる当事者の動きを劇的に描き、視聴者・読者をミスリードしてしまったこと。

こうした状況のただなかにあって、「政治家の罪」を題材に何かが伝えられるとき、「政治家と権力の関係」が語られるよりも、「政治家を取り扱う権力」が語られることのほうが多くなりました。



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でも何か忘れているのではないかなという気もします。

本来、検察やマスコミが有していた、そして功名心の陰に隠れて見えなくなってしまったのは、権力を利用して罪を働こうとした様々な人たちの「企み」を暴こうとする試みであるはずでした。

ある企みを持って罪を働こうとするとき、それが簡単に露見してしまうようなやり方なら、罪を犯すことに躊躇することは容易に想像できます。
結果として、その行為は、自然と、隠蔽され、また、法の遵守の一線の上をぎりぎりで歩くようなものとなると思います。

法に照らしてその行為の「罪」を問おうとするとき、その営みは常に法の適用をどのように行うのかという難しい問題と隣りあわせにあり、構成要件を取りそろえることの難しさが常に付きまといます。

そして
「わざわざ"罪"を「構成」しなければならないのか?」
「だとしたら、何のために?」

ということが厳しく問われてしまったのが、最近のいくつかの事件を巡って生じた状況であるのだけれど、罪が構成できるかどうかのせめぎ合いの背景には、その「企み」を白日の下に晒そうという強い意志・視線があったはずなのだと思うのです。

昨今、検察の捜査は、この「企み」すらも半ば偽造されて仮定を置いて進められていたため、そのシナリオが崩れたとき、大きく失速することとなり、その失態を取り繕うため、証拠を偽造しようとする行為まで生じることとなりました。

しかし、「企み」は忘れられてよいのだろうか?

そして、それは単に計画で終わったのだろうか?

ある意図をもって、誰かが誰かに利潤をもたらすために便宜を図り、その見返りに報酬を受け取る。そうした「企み」は成し遂げられなかったのだろうか?存在しなかったのだろうか?と疑問に思います。



権力への評価はその清廉潔白さだけでは決まりません。
だからといって、その功績が"横暴さ"を無視して一面だけをとらえたものであるなら、目に見えず失っているものも大きいだろうと思います。

権力が正しく行使されることは、健全な社会にとって不可欠な要素であり、そのためには権力を有する人が清廉であることは求めずにはおられません。少なくとも軽微でない犯罪を起こしていてそれが見逃されることなどあってよいはずもありません。

昨今の議論の過熱ぶりを見ていても、権力にある人の「正しさ」を問うことを「どのような状況であれ必要なこと」として説いている意見は少ないように感じています。

権力の正しさが問えなくなる時代となってしまわないことを願いたいです。

ナショナリズムの機運が高まり、強い為政者が求められる時代にあっても強くそのことを願っています。