桓武天皇は、聖武天皇朝の天平9年(737)にお生まれになった。

桓武天皇の御父は光仁天皇である(御諱は白壁)。
なお、光仁天皇の御父は天智天皇皇子の施基皇子である。
つまり、桓武天皇は天智天皇の御孫にあたる。

天武天皇のご子孫が皇位を継承せられた奈良時代において、白壁王(光仁天皇)が玉座に即かれることはおよそ想定されていることではなかった。
事実白壁王は律令官人の道を歩まれておられ、称徳天皇朝には、正三位大納言の地位にあられた。

ところがである。神護景雲4年(770)に女帝・称徳天皇が崩御された。
称徳天皇は生涯独身の身であられたため、当然のことながら皇子・皇女がおられなかった。
加えて、称徳天皇朝に天武天皇のご子孫がことごとく放逐されたため、天武天皇系の皇族がほぼ枯渇していた。
そのため、天武天皇系から天皇を冊立するのが困難な状況であり、それゆえ、天智天皇の御孫であられ、聖武天皇皇女井上内親王を室に迎えておられた白壁王が皇位を継承されるに至った。

光仁天皇のご即位に大きく関わったのは、道鏡が政治的実権を握っていた称徳天皇朝において冷遇されていた、藤原永手・百川らである。
『日本紀略』に引く「藤原百川伝」によれば、彼らは、称徳天皇がご生前、白壁王を皇嗣にするという遺詔を捏造したとある。
永手・百川らにとって、光仁天皇のご即位は非常に好都合であったのだろう。

桓武天皇の御母は高野新笠である。
新笠の出自は、山背国(のちの山城国)を本貫とする帰化系氏族である。
天皇のご生母について、母系が帰化系であるのは、応神天皇の御母であられる神功皇后の例があるが、父系が帰化系であるのは、おそらく桓武天皇が最初であろう。
桓武天皇は御母の本貫である山背国でお育ちになり、ご自身も御父光仁天皇と同様、百済王(くだらのこにしき)などの帰化系氏族を室に迎えていられた。
なお、新笠が高野の姓を名乗ったのは後のことで、もとは和史(やまとのふひと)が姓であった。
史の姓からも窺えるように、新笠の家はもともと文筆に携わっていた。

桓武天皇(山部王)もまた、光仁天皇と同じく律令官人であられた。
天平神護2年(766)、30歳の時に大学頭に任じた。
律令がある程度遵守されていた奈良時代においては、官人の資質にあった官職を任じた。
ゆえに、山部王が大学頭に任じられたのは、王が漢籍の素養を有しておられた証左になろう。
これは、母系の影響感化によるものであると思われる。

さて、光仁天皇即位時点において、山部親王(天皇の皇子なので親王と書く)は東宮であられなかった。
東宮に立てられたのは、皇后井上内親王所生の他戸親王であった。

ところが、宝亀3年(772)に、皇后井上内親王と東宮他戸親王が廃される事件が起こった。井上内親王事件である。
井上内親王が律に大逆と規定される巫蠱の罪を犯された容疑がかけられ、そのため井上内親王は皇后を廃され、連座したとされる他戸親王も東宮を廃された。

井上内親王事件は、藤原百川の陰謀であるという説が有力で、山部親王がそれに与されたという証拠はない。
山部親王が東宮に立てられるのを望まれたため、この事件に加担されたとも見ることができようが、その可能性は低いと思われる。
むしろ、山部親王は百川に利用されたと見るべきであろう。

この事件の目的は、守旧派、すなわち聖武天皇のご子孫が皇位に即かれることを以て復権の秋を待った官人たちを抑制するためであったと思われる。
つまり、百川ら革新派にとって、他戸親王の皇位継承は非常に脅威に感じられたのであろう。

井上内親王事件が集結した宝亀4年(773)正月、山部親王が立太子された。
ただこの立太子は、異例中の異例であったと言わねばならぬ。
飛鳥・奈良時代において、皇位を継承される方々の母は、皇族ないし有力氏族の子女であった。
山部親王のご生母は、帰化系氏族。いわば卑母である。
卑母所生の皇子を東宮に擁立せしめたのは、おそらく藤原百川らの策動によるものであろう。

天応元年(781)、東宮山部親王は、光仁天皇のご譲位に伴い即位せられた(桓武天皇)。
ところが、翌延暦元年(782)2月、因幡守氷上川継が資人大和乙人を宮中に乱入させ、いわばクーデタを起こそうとした事件が起こった。氷上川継の変である。

氷上川継は、天武天皇御孫塩焼王の王子で、母は聖武天皇皇女の不破内親王であった。
皇胤としての世代は桓武天皇と等しく、母系については、卑母所生の桓武天皇よりも優っていると言えよう。

この政変に連座したものは大変重い処分を受けた。
大伴家持もそのひとりであるが、桓武天皇にとって尤も衝撃的だったのは、右大臣で藤原北家の重鎮である藤原魚名も関連していたことであった。
このことは、桓武天皇朝初期は非常に不安定であったことを示唆するとともに、桓武天皇のご即位そのものについても、多くの支持を集めているものではなく、むしろ疑問視する向きもあったことを示唆していよう。

それゆえ、桓武天皇は長く都であった平城京を離れる決心をされたのであったが、この他に、ご自身の皇位継承が如何に正統なものであったかを周知させる必要性が生じた。
すなわち、天武天皇が、自らの系統の祖である天智天皇より皇統を簒奪したという意識である。

では、如何にして、桓武天皇は天武天皇系をいわば簒奪王朝とする意識を形成し周知されたかを、次回述べることにする。