桓武天皇は、延暦4年(785)と6年のいずれも11月に、河内国交野に遣いを立てられ、昊天上帝の祭祀を行わしめた。
この祭祀は、我が国で生まれた固有のものではなく、シナの『大唐開元礼』に規定される、皇帝自らが執り行うものである。
シナの昊天上帝の祭祀で配祀されるのは、昊天上帝と第2代皇帝の太宗であるが、桓武天皇が行わしめたそれは、昊天上帝と父帝の光仁天皇を配祀するものであった。

では、なぜ、桓武天皇は、シナの昊天上帝の祭祀を行わせたのか。
滝川政次郎は、これについて、桓武天皇の革命思想に基づいているとする。
そもそも、昊天上帝の祭祀は、シナにおいては革命思想に基づくものであり、シナ皇帝が行う祭祀の中で最も重要な儀式と位置づけられていた。

つまりどういうことか。
桓武天皇がこの祭祀を行われたのは、革命、すなわち王朝交代が達成されたことを闡明したに等しいということである。
我が国は単一王朝であるため、ここでいう王朝交代とは、父帝光仁天皇のご即位によって、皇統が天智天皇のご子孫に移行したという意味である。

しかし、村尾次郎は、この祭祀について、滝川が言うような革命思想に基づくものではなく、単に光仁天皇を純粋にお祀りするためのものであったと説く。
その証左として、桓武天皇が即位せられる以前、すなわち山部王の時代に、大学頭に任じていたことを挙げる。
つまり、桓武天皇がシナのことを学ばれる途上において、昊天上帝の祭祀をお知りになり、光仁天皇をお祀りする際に試みられたということである。

ただ、私は、この村尾次郎の見解に疑問を感じる。
というのは、桓武天皇が、なぜわざわざ革命思想色の濃い昊天上帝の祭祀をなされたのかという点である。
父帝を純粋にお祀りするのみであれば、他にも選択肢があっただろう。
それゆえ、桓武天皇がこの祭祀を選択されたのは、光仁天皇を新皇統の始祖的存在に見立てて、それを明らかにする意図がおありだったと思えてならない。

しかるに、この昊天上帝の祭祀は、あくまでも桓武天皇ご自身の皇統が新たなものであることを示したに過ぎず、この祭祀のみでは、天武天皇のご子孫が紡いだ皇統が簒奪王朝であることを明らかにしたとは言えない。
そのため、桓武天皇は、さらに踏み込んだことをなされる。
すなわち、延暦10年(791)3月に行われた国忌の整理である。

国忌とは、天皇・皇后の忌日(崩御された日)のことで、その日は廃朝のうえ所定の寺院で斎会が営まれた。
つまり、国家を挙げて天皇・皇后の忌日を顕彰・追善したわけである。
ただ、すべての天皇・皇后の忌日を国忌に充てたのではなく、奈良時代においては、奈良時代においては天智天皇以降に即位された天皇とその皇后の忌日を国忌とした。

延暦10年に整理の対象となったのは、天武天皇から孝謙・称徳天皇の国忌、すなわち、天武天皇系の国忌すべてである。
そのいっぽう、天智天皇と光仁天皇の国忌は残された。

現在、皇室において、第1代神武天皇と、孝明天皇から昭和天皇(今上天皇から数えて4代前から直前の天皇)が崩御された日に、「○○天皇(例)祭」と呼ばれる祭祀が行われている。
もし、この原則(4代前から直前の天皇)を桓武天皇朝に適用するなら、元正天皇、聖武天皇、孝謙・称徳天皇、光仁天皇の4代となろう。
(なお、淳仁天皇は廃帝であるため、当時の認識では歴代に数えないと思われる)

では、桓武天皇は、どのような方針で国忌の整理が行われたか。
それは、「親尽の祖を舎(捨)て」る、つまり桓武天皇の系統に遠い天皇の国忌を省くという方針で行われたのである。
この方針に基づけば、必然的に天武天皇系の国忌を廃止することが可能である。
国忌を省くというのは、国家を挙げての顕彰・追善をしないということだから、桓武天皇にとって、天武天皇系のご歴代はその対象ではない、換言すれば、天武天皇系のご歴代は認められないということになろう。
なお、天武天皇系をある意味軽視する思想・発想は、毎年12月に行われる荷前奉幣(御陵に幣帛を奉る儀式)においても顕著である。
すなわち、その対象となる御陵に天武天皇系は含まれていない。

以上のことを纏める。
・昊天上帝の祭祀によって、父帝光仁天皇を皇統の始祖的存在と位置づけ、これを以て新皇統が成ったことを闡明にした。
・延暦10年の国忌の整理は、「親尽の祖を捨て」る方針を立てることによって天武天皇系の国忌の廃止を可能にし、これは、天武天皇系のご歴代を認めないという意味である。
・以上のふたつを以て、桓武天皇は、天武天皇系を簒奪王朝と位置づけられた。(了)