我が国の建国記念の日は2月11日である。
これは、我が国最初の正史である日本書紀が伝える、第1代神武天皇が大和橿原宮で即位せられた辛酉の年正月1日を、明治7年(1874)に西暦に換算した、紀元前660年2月11日を根拠としている。
爾後、大東亜戦争敗戦の時まで、紀元節としてお祝い申し上げた次第である。

ただし、日本書紀の古い部分の年紀は、聖徳太子と蘇我馬子が推古天皇28年(620)に『天皇記』『国記』等を編纂する際、シナの讖緯説に基いて算出されたものであるため、史実とは言いがたい。
神武天皇が実際に即位されたのは、田中卓が説くように、1世紀頃と見るのが穏当であろう。

大東亜戦争敗戦後、紀元節はGHQによって廃され、我々国民は建国をお祝いする機会を奪われてしまった。
その後、昭和26年(1951)頃から、建国を記念する祝日制定に向けた国民的運動が高揚し、ついに国会の場において議論されるに至った。

建国記念の日に関する認識は、それぞれの主義・主張によって異なった。
その論点を纏めると、大きく以下の3つに分けられる。

(1)祖先伝来の歴史と伝統を尊重する立場。
(2)戦前の日本を否定し、敗戦後(昭和20年以後)新たな国家が成立したと見る立場。
(3)現在は天皇制と米国帝国主義が支配する時代で、真の建国は将来に闘いとるべきだとする立場。

(3)の考え方は、共産主義者の唱えるところである。
事実、共産党は、”現国家”での建国記念の日制定を終始反対してきたのである。
大変物騒な文言が羅列するものの、彼らの主義・主張を考慮すれば、分からなくもない見解である。

(2)の見解は社会主義者が唱えるところで、私にとって尤も共感できないものである。
彼ら社会主義者の真の主張は、共産主義者が唱える(3)であるものの、現実的な妥協によって(3)の主張を鈍化させ、(2)の主張をこしらえたのである。
いかにも社会主義者の中途半端さやオポチュニスト(日和見主義者)ぶりが窺える主張であろう。
この主張にもとづいて、社会党や公明党がそれぞれ建国記念の日に相応しい日を提案した。
すなわち、社会党は現行憲法たる日本国憲法が施行された5月3日を、公明党はサンフランシスコ講和条約が発効された4月28日を、それぞれ提案した。
両者の根底にあるのは、昭和20年を国史が断絶した「革命」の秋と看做す点である。

(1)の考え方は、私が尤も共感するものである。
大東亜戦争敗戦以前から我が国が存在したのは周知の事実であるし、敗戦以前に生を受けた方々が現在よりも格段に多かった当時において、昭和20年以前の歴史を認めないことは自己の否定にもなる。
また、我が国が、天皇をいただき長く豊かな歴史を醸成したことは言うまでもなく、それを無碍に否定することは、日本人ならばできないはずである。
この主張に基づき、自民党が神武天皇即位の日である2月11日を、民社党が聖徳太子によって十七条憲法が制定された4月3日をそれぞれ主張した。
ただ、我が国が聖徳太子がいられた推古天皇朝(西紀593年~628年)以前から存在していたのは、日本書紀・古事記の所伝からも明白であり、しかも神武天皇のご即位を西紀紀元前660年2月11日と定められたのは、先述の通り聖徳太子であられる。
太子のご思想を忖度するのであれば、神武天皇の即位された日を建国記念の日とするのが妥当であろう。

建国記念の日は、昭和41年(1966)に制定が決まり、総理府が設置した「建国記念日審議会」の審議を経て2月11日と定められた。
しかし、その間、神武天皇即位日を根拠とする2月11日を頑なに反対する国立機関があった。すなわち、我が国の最高学府である東京大学である。

ところが、東大は、2月11日には反対するものの、それに代わる対案を持ち合わせていなかった(その点、対案があった社会党などのほうがまだましである)。
事実、上記の「審議会」の場において、参考人として意見陳述した東大史料編纂所所長の竹内理三が、苦し紛れに先帝昭和天皇のお誕生日である4月29日を主張したのは、大変有名な話である。