先に、一条天皇が皇后藤原定子(長保2年〈1000〉12月、24歳で崩御)所生の第一皇子敦康親王をして次々代の天皇に望まれていたと書いた。

皇后ないし中宮所生の第一皇子が皇位を継承されるのは、当時において至極当然のことであった。

しかも、敦康親王のお人柄については、藤原公任が「帥宮(敦康親王)の才智、はなはだ朗らかにして、尤も感歎に足る、感歎に足る」と評しているように、かなり高く評されていたようである。



一条天皇は、崩御の前年(寛弘7年〈1010〉)の春頃より、敦康親王家の別当でもある藤原行成に、敦康親王立太子(立太子と書いたが次々代の皇位継承について)の可否を諮問されていた。

そのいっぽうで、藤原道長は、当時としては長い部類に入る四半世紀も続いた一条天皇朝を終焉させ、そして、いかにして第二皇子の敦成親王(中宮藤原彰子所生)を次々代の天皇に立てることが目下の課題であった。

そのため、道長は一条天皇の御不例を契機にして、ことを迅速に運ぼうとした。



占いの翌日である5月26日、一条天皇のご容態は快復の兆しがあった。

にもかかわらず、道長は、諸公卿を集めて内密に一条天皇御譲位について図った。

もちろんこのことは、一条天皇にお知らせされずに進められた。



翌27日の朝、前日御譲位について議されたことが、ようやく一条天皇のお耳に達せられた。

天皇はすぐさま道長を召し、東宮居貞親王とのご対面を仲介するよう求められた。

ところが、道長は「何のことですか」としらばっくれる始末。



その後、ほどなくして、一条天皇は、行成を召して敦康親王立太子について諮問された。

天皇にとって最後の諮問であった。

その際、行成は、敦成親王立太子を支持する意見を陳べた。その理由は以下の如きである。



まず第一に、皇位の継承というのは、皇子が嫡子か否かということや天皇の寵愛を受けていたか否かによって定められるのではなく、皇子の外戚が皇室の重臣か否かで定めるべきであるとした。

つまりは、道長が重臣外戚である敦成親王こそふさわしいと説いたのである。

その際、行成は、第四皇子でありながら、重臣外戚に藤原良房がいた清和天皇御即位の例を挙げた。



第二に、承和の変において廃太子になられた恒貞親王と、ご高齢で即位された光孝天皇の例を挙げ、皇位継承は人があれこれ左右するものではなく、神の思し召しによるものだと説いた。



第三に、敦康親王の御母である皇后定子の外戚が高階氏であることを挙げた。

曾て、在原業平が伊勢斎宮恬子内親王と密通した事件があった。

その際生まれたのが、高階氏に養子に入った師尚である。

敦康親王には密通の末に生まれた師尚の血が流れている。

斯様な方が即位されたら、きっと神の逆鱗に触れるであろうと説いたのである。



そして第四に、もし天皇が敦康親王を憐れんでおられるのであれば、手厚く遇されればよろしいであろうと主張した。



一条天皇は、行成が敦康親王支持の意見を表明すると思っていられたであろう。

しかし、諮問の際、天皇が「忍び難きことなどあり」と仰せられていることから、道長が醸し出した御譲位の空気が諸公卿に満ち、それが行成にも影響を及んでいたことを、天皇はお察しであったかもしれない。

またそれは、一条天皇の周辺にも及んでいた。

事実、行成が一条天皇のお召しを受けて参内する際、天皇にお仕えする女官たちが揃って号泣していた。

それを目の当たりにした行成は、訳を問うと、女官たちは「御悩、ことに重きにあらずといへども、たちまちに時代の変あるべし」と述べたという。



道長の工作が奏功し、すっかり朝廷は一条天皇御譲位と敦成親王立太子の空気が支配的になった。

しかし、斯様な道長の露骨なふるまいに激怒する人物がいた。

(つづく)