「今皇帝」と記載される桓武天皇の歴史を挿入した続日本紀の後半20巻(巻21~巻40)、延暦13年(794)2月13日に完成し、藤原継縄によって献上せられた

桓武天皇の歴史を続日本紀に記載したいと望まれたのは、編纂を命ぜられた桓武天皇ご自身である。

これは自己の皇統の正統性を強調するためと、坂本太郎が言うように親ずからの治世に対する強い自信のあらわれではないかと思うのである(坂本『六国史』)。

桓武天皇が特に強調したかったのは、新京長岡への遷都や、それに関連する藤原種継暗殺事件や、早良親王(桓武天皇御弟)の廃太子のことであったと思われる。

これらの直近の歴史を自身の目で確かめたいと思われたのであろう。

しかし、こうした自信が逆に破綻となってあらわれてしまう。

桓武天皇は、長岡京の造営に当たっていた寵臣藤原種継が暗殺されたことに対し、大変激怒された。

種継の暗殺は、大伴氏や佐伯氏らが皇太子早良親王擁立を企んだクーデタと判断され、それゆえ天皇は、大伴氏や佐伯氏を厳しく処罰し、また早良親王の皇太子位を剥奪し、淡路国に遷されることを決意された。

だが、早良親王は自らの無実を訴えるべく十数日間絶食され、淡路へ遷される途中で薨去された。

早良親王は桓武天皇にとって同母の弟君(母は高野新笠)であり、同母弟を憤死させたことは、桓武天皇にとって大変後味の悪いものであったであろう。

加えて、生母の贈皇太后高野新笠や皇后藤原乙牟漏が相次いで崩御され、また新たに皇太子に立てられた安殿親王のご病気がなかなか快復せず、いかなる手当てをしても効き目があらわれなかった。

そのため桓武天皇のご心痛は極に達した。

桓武天皇は、ご身辺の度重なる不幸について占いをさせ、これらは早良親王の祟りのせいであるとの報告を受けられた。

天皇は親王の怨霊を鎮めるべく、崇道天皇のご尊号を贈られ、また淡路の早良親王のお墓を山陵と称するようにされた。

さらに、続日本紀の早良親王廃太子の記事の削除を命ぜられたのである。

天皇といえども、親ずからの治世を好意的に評価させるために、それを国史に挿入しようとすることはあってはならない。

ましてや、自身の都合で、一旦完成・奏上した国史の記事の削除を命じることは、大変厳しい言い方ではあるが、歴史に対する背信行為であり暴挙と言わざるを得ない。

かような誤った国史の編纂を命ぜられ、さらには記事の削除をお命じになったのは、桓武天皇おひとりのみである。

早良親王の廃太子記事の削除に関しては後日談がある。

桓武天皇のあとに即位された平城天皇は、早良親王廃太子の記事を続日本紀に復活させた。

これは、平城天皇の寵臣で、暗殺された藤原種継の子供である藤原仲成や藤原薬子が、父の暗殺経緯を削除された続日本紀の記事に不満を抱き、父の立場を正当化するために復活を求めたとされる(現に薬子の変後の桓武天皇御陵に告ぐ宣命にかような意味の文言がある)

しかしこれは、仲成と薬子の罪状を強調するために加えられた方便であると思う。

平城天皇は、御父桓武天皇の政治を批判され、疲弊した朝廷の財政を健全化すべく意欲的に改革に取り組まれたことで知られる。

そのためには、父帝のご事蹟を冷静に直視する必要があったであろう。

平城天皇による早良親王廃太子記事の続日本紀への再記載は、かような視点に立ってのことだろう。

平城天皇のあとに即位された嵯峨天皇の御世に薬子の変(平城上皇の変)がおこり、仲成・薬子兄妹は失脚し、平城上皇は出家入道された。

薬子の変のあと、嵯峨天皇は桓武天皇御陵に政変が収束したことをお告げになるべく使者を派遣された。その宣命のなかに、先ほど申し上げたとおり、「君側の奸」ともいうべき仲成・薬子兄妹によって復活された早良親王廃太子の記事を再び削除したことが記されている。

そのため、現在われわれが目にする続日本紀には早良親王廃太子の記事が記載されていないのである。

ちなみに、早良親王廃太子に関する記事は、現在『日本紀略』という史籍によってうかがい知ることができる。

日本紀略には六国史が抄録されたものが掲載されており、もちろん続日本紀の抄記もある。

あくまでも推測なのだが、日本紀略の編者は早良親王廃太子の記事が削除されていない続日本紀を用いたのであろう。

それゆえ、今日、日本紀略によって早良親王廃太子の史実を知ることができるのである。