御歴代を一瞥するに、「徳」字が諡号に遣われる天皇を見出すことができる。

第16代 仁徳天皇
第36代 孝徳天皇
第48代 称徳天皇
第55代 文徳天皇
第75代 崇徳天皇
第81代 安徳天皇
第82代 顕徳天皇
第84代 順徳天皇

第82代はあまり馴染みのない諡号であるが、御歴代を暗誦できる方は、どなたのことかご存知であろう。
そう、承久の御計画(承久の変)によって隠岐国にお移りになった後鳥羽天皇のことである。
後鳥羽天皇は、当初、顕徳天皇という諡号が贈られたのである。

国史や皇室の歴史にお詳しい方は、私が今何を言いたいのか、もうお分かりであろうと思う。
そう、「徳」字が諡号にある天皇は、不遇の死を遂げられているのである(ただし、第16代の仁徳天皇以外と申し上げておく)。

第75代の崇徳天皇は保元の乱によって讃岐国にお移りになり、第81代の安徳天皇は壇ノ浦の戦いのあとに入水自殺された。
また、第84代の順徳天皇は、承久の御計画により佐渡国にお移りになられた。

では、あとの御歴代は、どのような意味で不遇のご最期であったかを以下にお話しよう。

まず、第36代の孝徳天皇。
大化改新の時に即位された天皇である。
白雉3年(652)に難波長柄豊碕宮に遷宮された後、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)との対立が表面化、翌白雉4年にはとうとう朝廷は分裂してしまった。

中大兄皇子は、皇祖母尊(皇極天皇のこと)・孝徳天皇皇后間人皇女らと共に飛鳥河内行宮に遷宮し、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮にお残りになった。
そして白雉5年(654)10月、孝徳天皇は寂しく崩御された。

第48代称徳天皇。
道鏡政権の時の天皇である。
称徳天皇の崩御については、『日本紀略』や『古事談』所引の藤原百川伝に記載されるが、かなり下世話な内容で、本当に天皇ご自身が斯様なことをされたのかと思うほどである。
すなわち、称徳天皇が自慰行為に及ばれ、不覚にもそれがもとで崩御されたというものである。
ただしこの所伝は、道鏡政権という、本来の政体と著しく乖離した政権に対しての批判も含まれていると思う。

第55代文徳天皇。
平安時代前期に在位された天皇である。
文徳天皇は、第1子である惟喬親王の立太子を希望されていた。
しかし、時の実力者であった藤原良房の圧力にあって叶わず、代わりに、良房の娘で女御であった藤原明子所生の惟仁親王がわずか9ヶ月で立太子された。

文徳天皇の崩御は天安2年(858)8月27日、御寿32でいられた。
発病されてわずか4日後のことであった。
文徳天皇は突然発病され、言語が全く通じない状況に陥られた。
そのため、 近侍の者が慌てふためき、みな冷静さを失うほどであった。

これらの状況から、文徳天皇は藤原良房によって暗殺されたとの見方もある。
文徳天皇崩御後、惟仁親王が即位された(清和天皇)。
清和天皇は時にわずか9歳。
清和天皇朝において良房が政権を掌握したことを考慮すれば、斯様に考えることもできるであろう。