黒澤明の『生きる』を観た。
ガン宣告を受けた定年前の男が、人生を見つめなおす・・・そんな映画紹介文を読んで、「そうか」と思っていた。観た後、そんな紹介文はクズだと思った。
死と生はいつも隣り合わせだ。
「お役所仕事」を30年間続けてきた
渡辺(主人公)はいざ死に向き合ったとき、
自分に「生」がないことに気付いた。
「なぜ 君は そんなに いきいきと・・・」
渡辺が自由に生きる部下のとよに問う。
「ただ働いてご飯をたべてるだけ」
と彼女は言う。でも彼女は生きていた。
子供用のぬいぐるみを作っている彼女は、
それを作っていると日本中の子供と友達になった気分になる、と言う。その一言が、私にはとても重要に思えた。渡辺はそれまで、書類とハンコの中で生きてきた。彼の仕事の先には、人は存在していなかった。
渡辺は次の日出社した。そして「生き」始めた。彼の仕事の先には、市民という人がいた。
「自分を成長させる」「向上心を持つ」
大切なことだと思う。でもやっぱり自分だけのために人は生きるのではないし、
そんな人間は生けていけないと思う。
社会貢献なんて言葉で片付けてはいけないのかもしれない。難しいけれど、
とにかく「その先」に人がいる仕事をすることで、人は「生きる」ことができるのだと思う。
腐りたくないんだよ。
私は高校3年生のとき、そう言ってまわりにワガママを言って大阪の大学に進んだ。あのときの『生きる』とは、とにかくぬるま湯につかりたくない、という一心だった。「生き」やすい場所を求めて外に出た。
「生き」なければならない時が刻々と近づいている。ぬるま湯の湯船の栓は抜かれた。入ろうと思っても入れない。
渡辺に見えた「生きる」意味その全て理解できるのは、それこそ墓場がすぐそこに見えたときかもしれない。でも、私は「生き」たい。
葬儀で「やるよ!」「やってやる!」と意気込んでいた役人どもが、翌日にはケロッとお役所仕事を続けている現状。それもまた人生なの?
嫌だ。そんなの嫌だ。
私は死ぬまで生きていたい。
生きる