この写真に写っとんが少年時代の私だ。


この三年後養徳小学校に上がった私は、毎朝集団登校時泣いていた。私の耳の上の内側は今も赤い。



母は私の耳を引っ張った。泣き叫んだこともあった。母は耳をきつく引っ張った。










あきらめて学校まで着いたてんだと思う。


ひとまかにまの社宅でこよりを折っていた母にはそれしかできなかった。



幼いながらも、お母さんにまで裏切られた…ように思ったろう。昭和40年代、学校に行かない子は、




なにがなんでも…と読んだ。




ご飯中兄弟は、言わないのに私は



ご飯中テレビつけたらあかん…





とか…


癇の虫なのに我が家にはひやきおうがんを買う金もなかった。




この年になってやっと鼻で息をできるようになった私…しかし耳鼻科に行けたのは小学校で鼻の検診があってからで母はいちにどはつれていってくれたが、何か言われるのを恐れてであり形だけ食べる金に事欠くので、耳鼻科より市場で魚をてにいれたく、すぐ耳鼻科などつれてかなくなった。弟の脱臼にも二回くらい医者の脱臼をはめるのを見ていて、覚えて弟が脱臼すると母がはめていた。







中学になっても私の下痢は治らなかった。クラブの帰りに学生ズボンを下痢のウンコを漏らした。




小学校でもあんまり教室が臭く、先生が




窓を開けなさい、


と言った。私のウンコは匂った。当時は給食の牛乳が原因だとはわかっていた。ある時ビンの牛乳を母が暖めてくれて持ってったのに先生は、飲むのをダメと言った。





私の誰もわかってはくれない。と薄々思っていたし、段々と私は自分で演技をすることを覚えて行った。ジョブズ塩浜での全ての発言も行動も演技だ


母にだけは演技をできなかった私も独立して六年がたち…母と私は違う人…電話では母と私は友達のように話す。妻には一日中学問を時続けている妻の子守唄は私の学問話。私の見ん材は妻のイビキだ