こんな所におったおじいさんの日本語が現代日本語に翻訳不可能。




明治の富国強兵にのり東京の鐘ヶ淵に紡績を営んだ鐘ヶ淵紡績後のカネボウは東京大阪京都に拠点をおきじょこう哀史のいとつなぎの娘は京都工場にもじょき、という女子寄宿舎が存在したし…ただ東京の世田谷区歴史のレリーフにカネボウ社宅の写真はないのか、当時の人の



証言による遺跡であり考古学とも言える。私は左京区の竹屋町の





どや街ではない



屋根にはいしは乗っていない。ただ写真に写ってる防火用の





ドカンの上でコマの喧嘩をさせて遊んだ。ぼっとん便所の汲み取りのふたも木で、大きな蓋だし…私は覚えてはいないが写真のように遊んでいても、





臭かった。と思う。母は竹屋町のカネボウ社宅は





ひらの社員の社宅で一階建てでにへやと台所、




高野川の横の家が私の家だった。貧しくコップを私が割ると母は私を睨み付けた。







なんせ内職ができたのは上竹屋町から移った後で












なんと

母はティッシュではなくちり紙…ティッシュでなく箱に入ってない上質のティッシュよりは硬いちり紙を






よって





こより



を作っていた。もちろん終戦直後でもないが、ちり紙をよるだけの金にも何にもならない仕事を母はよく作っていた。



貧しく蓋の当時なかった溝を今で言うブラシで軍隊の婦人部のようにしゅうに何回かは母は近所の同じ棟の婦人と溝掃除


と言ってもや苔がそんなにつくわけではないだろうが軍事教練のように溝を掃除していた。



明治の建物であるカネボウ社宅の写真を







私はこのように捨てず保存していたし…この写真は今日実家から運んだものだ。カーんカーンカネボウ赤ちゃんの時からカネボウ毛糸









ぶるすりー…ブルースりー




当時の三島事件でか私も







首ちょんぱ首ちょんぱ…と言っていた京都の小学生は






おんどら…しばいたろか…と言っては挨拶代わりに




おんどら…しばいたろか…と言っていた







いんさん…というどっちぼーるを使った球技で自分のコートでわんばうんどをさせたボールを相手がまたわんばうんどさせて打ち合い、相手コートにわんばうんどさせた玉を見送ってアウトの場合、失点というか自分の得点になった。



時間がないと五点ルール普通は10点ルール?だったと思う。取りにくいバウンドの高いのを打つときに必ず







原爆!と言った




ローアングルの玉、これは決まったものだが








水爆!と言った



メンコをみちはたと言う東京で言う駄菓子屋で買ってしてた、時代劇のロケにきた左京区カネボウ社宅万歳!ふろはなかったが見張りは水浴び場に男のおじさんで母と毎日貧しい銭湯でなくかねいらん水浴び場に…見張りのおじさんは砂で汚した私を見て








よう遊んだな!と言ってくれた、友達が少なく家にいた私は次の日




前の道の砂でわざと服にすり付けて風呂に行った









見張りはよう遊んだな!とも言わなかった