河原田がわに
掘っ立て小屋が立っていた当時


蒲田。君はその掘っ立て小屋に住んでいた





河原田に住んでる美しい私より私の娘に年の近いようなクールビューティーが



デブずにいたな








蒲田の話をするときたがい、と思ったか怖がったけど、同い年らしい瀬戸物さんとはよくしゃべってたな~






竹の子ぞくは、原宿で踊り、横浜の瀬戸物さんは原宿まで踊りにいってたって…






披露は、したけど自分では詩の中でも、俳句は向いとると思っとるし、角川書店の二代目の社長のする角川俳句に出した






胸立てて…踊る竹の子…つかんだろか






という栄養失調の18才の時…京都を思い大津の高校にさえ行けない女の子ばかりの学校に通う頃…一度だけした痴漢経験を元に作った


この俳句は通らなかった




瀬戸物さんは、幼少時お母さんを亡くしたときこうたし、私とは違う思想の持ち主だった。







ギャグでいう尾崎ゆでダコとは私は言うが、尾崎豊というのは竹の子と比較さえされないマイナーな歌手だった。しんで有名になっただけで死ななきゃ無名だった。




そうか学会に入るような蒲田のような家にすんどった同じなんちゅうバレー部の博哉がそんな歌を聞いていたが、それは貧乏だからだったし私もよく中村雅俊の青春ドラマの真似のような歌を歌う尾崎豊を聞いとるだけ…と思ったしちゃんとした人なんか、おらんに、という嫁は、ちゃんとした人がいない世代には中村雅俊の主張に大人社会に反抗する尾崎豊が同じく


何故生まれてきたのだろう…


と歌ってた矛盾がわからんな








蒲田は金歯地先生にかぶれて教壇に座り込み担任の篠田昌宏先生が









席に戻れ!と言った大声が世界一の大声だった。腕相撲も片手で両手の蒲田を寄せ付けず…バレー部の栗本はでかすぎてか照れ訳はないので、一年の時だけ栗本に変わられて女子バレー部に変わった堀内には買ったのは鈴鹿高専の寮に入って夏休みになんちゅうにバレーを教えに行った私に








高見、すこすこに殴られとるてな…と根性の堀内でもない兵隊の捕虜…最後のアウシュビッツ体験は書けないが、



勝ったと思った…私の価値観とは当時としてもえらいバレー部高専という最高の虎の穴を選び続け





NISSEI学園は、桜ヶ丘高校になり鈴鹿高専は今もあるが昔の鈴鹿高専ではなく今は国立鈴鹿高専じやないらしい、法人がやってて全寮制でもなく、電子かに女の子がいっぱいいて私の文学博士を認定した奥ていじ先生も。今は女の子がいっぱいいて華やかで…と言っていた…どちらもなくなったが熊野高専があるが…バレー部なのに野球部に入り高野連に入るため運動を起こして硬球の赤い糸を日曜日に寮から帰宅した時縫ったぼろぼろの硬球…熊野高専は甲子園予選にある程度強いけど負けて泣く泣く泣きまくるが私の野球部もそんなんやったで気持ちがわかる、しかしそれにも関わらず…相手にしたくない平成の若者が



楽ばっかして生きとんな!と教えてもらっといてヘラヘラと笑い…母親の死んだとき自殺だと思うが…まず親の恩を思い、自分の精神病を病気ではないとする毛とを前提として結婚できたら避けられる…が





教えを、

乞うなら




結婚できた人に教えをこえ!ハゲは結婚しとらん…これも教えだがよく考えろ…実際に反省して実行することだ













蒲田は高専に入った私がある時偶然会ったが…肉体労働の辛さからか弱りきり…勢いも全くなく



教えてください



とか高校に入れなかったのを悔いてるようで















金八先生の武田鉄矢みたいな短足に憧れたことを悔いていた…私のは金八先生の真似じゃない

























野生の証明の高倉健だ。薬師寺博子をおんぶして自衛隊の戦車に




中央突破を試み!突入した高倉健だ