実家の家風は、生活できとることを見せつける家風だったし、生活ができてる者は勝者で、例えば自閉症で引きこもっていて学校や会社に行かないでいると、その事について、何にも言わないのだが働いて帰ってきたお父さんが、ビールを飲んで…これはいい例ではないが、雑巾が縫えたり掃除ができたら勝者…そんな感じだ。
お父さんは、兵庫県を出て大阪に出たが寮に住んでたのか知らないけど、大卒しか入れない当時の大企業の繊維企業に高卒で、上に高見という人がいただけで入れた父は、滋賀県の彦根の見ず知らずの田舎に流された。
大阪の環状線だが、電車の中で泣いた、ときいたが当時の大阪といえば東京と五分とは言わないが、経済的に10倍も差のある今とは違い半分くらいの経済力があったろうし、西日本の人は大阪に出だし、東日本の人が東京に出ただけで大志を抱く若者にとって出る大都会は、東京でも大阪でもよかったし私が東京に今出るとすると気が引けるがお父さんは清水の舞台から飛び降りるように出た大阪で苦労して働いたが終われたのだ。
お父さんも26さいか、結婚がまだだったが、同じ兵庫県の市で違う部落のお母さんと見合いだが、全く見合いの形式を取らず彦根で働く父と兵庫県の母は、間の京都で会え、と今でいうデートの形式を取った二人の見合い立ったらしい、その後すぐ死んだおばあちゃんは、父に…よっぽどいややとかでない限り、結婚したらいい。ようなことを行ったらしく、手紙を朝礼は書いた後何でか結婚したようだ。
母も、大阪を追われたながら一度は大阪に出た男前の父に遥か離れた彦根に出たが、どんな気持ちだったろう?
私が精神病で悲惨な生活で後最近ではないが、平成も近い頃、後生まれた精神を病む私をつぶれた彦根工場の社宅はもうなかったが、琵琶湖はありうみに降りる桟橋のような所に行ったが、姉も生まれていない頃に二人で行ったのだろう懐かしいだろうが、そこには姉に継ぎ生まれた精神を病む私を連れていた。複雑な感情だったろう。
おじいちゃんおばあちゃんと離れ遥か遠い土地で二人で生活し、その後三人の私を含めた子供を増やして…家族が増えて生活したのだろう。
教育は後聞いたが自主性を重んじて…と私が男なのに高校も行けない女の子の行く花嫁学校に繊維で働く技術を身につける?と許してくれたか栄養失調に花嫁学校時代のアパートで陥った私だが、電話を夜の公衆電話でかけても、
どこにおるん?
と言い女の子の学校で女の子と遊んでいると思われたし、世界救世教という支部に車で来た時私を連れていき参れるように月謝を払ってくれたのか、参っていいから、ここに参り!と言った。
果てしない悲惨。悲惨な会社の倒産とー大阪を転勤して彦根工場は閉鎖、京都工場に行って私と弟は生まれたが四日市工場鈴鹿工場、と関西ではない土地にも進出し鈴鹿を60で定年になった父は65まで長野工場なら働けるときき、知人も友人も誰も知る人などいないのに同じ会社だと若い人に連絡をとり、冬を2階まで雪のあった長野の飯山市に精神病の私に長野けん行っていい?ときくので、私もいい!と言って長野に行った言葉は、通じたが、標準語でしゃべったら、だった。借りた家は、飯山市会議員で2つも家のある人の池のある家だったが、家の半分だけ借りたのであって…それを知らない私は、雪国で精神病で標準語しか通じなく主治医の先生は大量の投薬により寝たきりにしてくれた。
半分しか借りてなく大家さんが勝手に入ってきて寝たきりの私でも腹がものすごい立って固く侵入材で訴えるぞ!と言おうとは思ったが後で半分しか借りてないからな…と言われた。今ボディビルけん3位でも薬で人は寝たきりには出来る。私の苦労は花嫁学校で栄養失調で紙を食べて…先生に精神病院に行ったら?と
有印文書を作らせ、辞めるんやな?と私に聞いた先生に四日市に帰った私だったが高校も出ておらず、捕虜のような目にあってくたくたに心も体もなっていたが、定時制の北高校は断られたが通信制の四日市高校に日曜に父の車で通ったが、心はズタズタでただ行ってただけではあったが、日曜休みの父にドライブに連れてってもらう気晴らしは、通信制の高校にただ行ってるより精神病が回復するのを早めたし、あのまま行ってても高卒になれなかった。私がこうなったので弟のこは、よくできても…おじさんがええ高校行って…あんななったでと、いい高校に行けても行かない。弟は父母私が長野に行き実家を空けてるので一人寂しく22歳くらいで結婚して私は四日市にまた長野から帰っても精神病で
お兄ちゃんの部屋は変えやんけど…と私の部屋以外リフォームし二世帯住宅に変えた。実家は長男の私じゃなく次男の弟のだ。
実家の家風はこんな経緯で生活できとるものが勝ちとなったのだろう

