お姉ちゃんはお父さんに頭が上がらない。高見家三兄弟。







結婚して、父と姉と私が実家にいた時だ。


私は妙な光景を目にした。

女のお姉ちゃんは男のお父さんに顔も上げられないのだ。






お父さんは、私は意識してなかったがお母さんがある時、男前だ。というようなことがあり、そういえば男前かなとは思った。



五人で3部屋だけの社宅に住んでいたが、そういえば一回だけ






石原裕次郎!


と顎に手を当て、足をちゃぶ台に上げて言ったことはあった。





五人なのに3部屋だけだと、寝る場所はなく、ちゃぶ台を部屋の隅に裏向けに立てて布団を引いていた。






お姉ちゃんは、自閉症の私と違って盆踊りのわのなかに入って行って盆踊りを踊っていた。






京都のカネボウ社宅は、明治の建物で、私の家ではないが、時代劇のロケを取りに来ていた。




元に何があった所かは知らないが、公家もいただろう左京区の広い土地に社宅が、一丁会、二丁会、三丁会とあったが、床を雑巾で拭くとトゲが刺さった。



小学校二年まで家に風呂はなく、カネボウの銭湯の女風呂にお母さんと行っていた。




しかし、お姉ちゃんも一緒に行っていたと思うが覚えはない。





駅伝の走る高野川の横の道の一番端の家に住んでいたが、銭湯の帰りにふいにお母さんが


この花の名前しっとう?

と僕に聞いた。




知らん


と僕が言うと



ようしっとうな

紫蘭言う花やで!

と言った。




しかし、紫蘭の花の咲いてた所で、昌は生まれたんやで!



と社宅である知らない家を指差して、母は行ったが、私は高野川の横の家で生まれたものと思っていたし全く知らない家だった。








お姉ちゃんは滋賀県の彦根で生まれたが、すぐ京都に彦根工場が潰れ引っ越したし、小学校五年生までいたので、京都のことが僕よりわかっていた。





お姉ちゃんの友達は既に胸が出ていた。



貧乏なことを悲惨と思わない思想。


貧乏だから頑張ると言う思想は、昔田舎にもあったか?



弟やお姉ちゃんにはあるのか?



弟は幼稚園の時三重県に引っ越しになり、京都のことは覚えていない。


引っ越した次の日から三重県の言葉を使いだし兄の私は、京都弁で弟に怒った。




宝塚市に姉は嫁ぎ阪神大震災が起こり、長野県にいた母と父と私は、



朝電話が鳴りやまず、母と父はいなかった。


何回鳴らすんや。とあまりにもベルがなるので出ると弟がお姉ちゃんの所、電話繋がらへん。とかけてきてた。



僕は揺れたろうがあまり知らなかった。それより三重県の人のようなもんの弟が家族を心配することが以外で三重県の人と思ってたのに三重県の人の文化を知った。





貧乏を悲惨とも思わず、むしろ情緒があり哀れだ。とする思想、姉にあったかなかったか、京都のことがわかる姉だが彦根生まれで堂々とは言えなかった。






引っ越しを母が伝えると姉は泣いていたが、母が



昌宏は男やから泣かへんな!



とはいったが、なぜ姉はそんなに悲しいのか?私は京都の友達が憎かったし、いやとかは分からなかった。





姉は引っ越して女なのに髪のセットもせず、いわば引っ越したからか落ち込んでいた。



第二次成長の時期に転校し家に風呂はあったが、



毛がはえとう、と言った次の日からは、弟や僕と風呂に入らなくなった。



姉とそれから喧嘩して髪の毛を私が引っ張ると姉は、女なのか泣いた。




変化のありすぎではあったが、その頃は分からなかった。



姉は女の順応性の高さと明るさもあり中学校では三重県の方言を使えた。テニス部に入り楽しそうだったが、長女のおっとりで高校でカバンを潰すのは一番遅かったようだ。






お父さんは優しく男前で姉は頭が上がらない。



苦労して育ててくれて、3部屋だけの社宅で会社から帰って来て





幼い3人のこがいて、育てるのに働かなあかん、と思ったのか、よく





ふるた!



と言って武者震いした。





私には、それが面白かった。








しかし、なぜ僕は



ボク、ボク



と両親から呼ばれていたのだろう?





多分田舎の農家出身の父母にとって、長男が家を継ぎみよじを残してくれる、という文化の名残だろう