私の父は、凡人とは、思えない男前の風貌と悲壮感と、そして、統合失調症の遺伝があった。
 
 
なんとしても、生き抜く。会社の倒産で、全国を渡り歩いた父。
 
 
 
家には、いつもピリピリとした悲壮感が、漂い悪いことすら、しなかったら、何をしてもいい、といった感じだった。
 
 
高度成長期だったか、京都社宅で、「くえやんようになったら、あんたらに食わして、お父さんとお母さんは、食わんと死ぬ」といった。
 
 
 
敗戦直後、大阪に出た父は、焼け野原の大阪と赤線(今でいうと赤線の引かれた中で売春は合法だった)と終戦直後の大阪を生きた。
 
 
 
 
「何が、ええかわからん」と言ってた父は、神国、日本の敗戦と事件の中を生きた。
 
 
 
「金は、汚い」と言ってた母も、日本の戦後を父に従った。
 
 
 
父は、私の童貞喪失のソープランドに私が不安だと、車で乗せてって、ソープランドの待合室で待っててくれるとこや、実家での占い相談所開設を許してくれるところがあった。
 
 
 
 
大阪、彦根、京都と渡り歩いた父だったが、四日市工場には、謎が多い。
 
 
そもそも、なぜ前の従業員のいる四日市工場につぶれる直前の京都工場から、移れたか!?
 
 
子の私には、言わなかったが、生きるために必至で、子の教育に悪いことがあったんだろう。
 
 
京都から、四日市駅に着いた私は、近鉄四日市駅の電車から、夜で、コンビナートの薄気味悪い灯りを見た。
 
 
どんな未来が、待っているのだろう!?
 
 
 
親を信じて、四日市にきた。
 
四日市工場は、工場長に隠し事が、あるかのように、バレてはいけないことがあったのか、インターホンを押して名を言わないと入れないように壁に囲まれていた。だから、中社宅には、宗教の勧誘も、商売も来なかった。
 
 
最近になって、四日市工場が、つぶれた時、新聞に載ったと聞いた。
 
 
 
 
考えられるのは、大量のヘドロが、土一枚で隠してあった。私も、ヘドロの上で遊び、赤や青のヘドロが、靴に付いた。今は、四日市工業高校になっている四日市工場。
 
 
悪いことはあっても、水に流して、教育施設が立っている。
 
 
鈴鹿工場にしがみついた父だったが、倒産。
 
若者が、ベル、と呼ぶ鈴鹿ベルシティが立っている。
 
 
 
京都工場は、関西系のいづみやが、立った。
 
 
 
繊維も、往時は凄く、四日市工業内だけでも、野球グランドとテニスコートがあった。
 
 
長野工場に宛もないのに知りもしない人に雪国の家を借りてもらい、大雪の中を生き抜いた父。
 
 
小さい頃から、父を見ていて、この人の苦労は、世に出さないといけない
 
 
と思い続けた僕。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お父さん!!
 
 
今、その夢は、叶ったよ!!