ドイツのブログ -73ページ目

ドイツのブログ

私が、博士号を取り、子供と同居し、芸能人になるまでを描きます。

ドイツのブログ-DSC_0028.JPG
幼少の頃。私のお父さんは、日本は高度成長で、毎晩、よる遅くまで働いて遅く帰って来ていた。
共に暮らしていて、この人の苦労は、肌で感じていた。
 
 
 
何気に、この人の苦労をどうしても世に出さないといけない。とは、肌身で感じて思った。
 
 
 
 
お父さんは、戦前に生まれたが、小学校の時は戦争中で、空襲警報の時は家族の元に学校からかえされた。と言っていた。
 
 
 
当時、真珠湾攻撃の後の日本は、領土が何とハワイまで日本国の赤だったという。
 
もちろん、朝鮮も満州も赤だったのだろう。
 
 
 
 
玉音放送を国民服で聞いたのかは知らないが、日本は戦争に負け、父は小学校五年で、ご存知の終戦の大混乱。簡単に言えば、全ての日本人が死を覚悟したような大混乱。
 
 
 
 
父は、ウルトラファシズムから民主自由主義という無理のある過ぎる日本国の大転換に後に「何がええかわからん」とは、いっていた。
 
 
 
父のことになるが、中学高校と男女共学になったか、国際社会に復帰できもしなかった恥ながら、孤立した日本は、静かでサンフランシスコ講和条約で日本が国際社会に復帰するまでをすごし、高校卒業後、アルバイトかなんかのあと、多分何かあったのか、少年よ
大志を抱け、か想像を絶する暴挙に名乗り出た。
 
 
大阪へ出るけっしんだ。
 
 
なにを考えたか、想像を絶する破天荒を選んだ父は、大学をでないとは入れない大企業に上に高見と言う人がいて通った。
 
 
焼け野はらの大阪にはプラネタリウムだけが残っていたという。
 
 
 
大卒ばかりの場違いの大阪本社は、大学でスポーツをした筋肉隆々の人ばかりで、独身寮から柔道場に毎朝ダンベルを上げに、会社に行く前通ったという。確かに若い頃の父の力瘤は相当で、私は子供心になぜテレビにでないのかなと思っていた。それくらい力瘤は出ていた。
 
 
 
労働運動と女ばかりの現場の繊維の一流企業で公務管理をしていた父。
 
 
辞める、というと父の母は、石ノ上にも三年というと言った。
 
 
 
 
早死にのおばあちゃんで私は覚えもないが、父の誕生日には、
 
 
 
 
 
 
 
 
学さん。誕生日おめでとう
 
 
 
とケーキをくれた。
 
 
これほどの父が私にあるとき「わしは、凡人や」ともらした。
 
私には、父が凡人というのは以外だった。
 
 
 
 
彦根工場に転勤を言い渡された父は、電車の中で泣いたという。
 
 
 
 
(続く)