私は、ショウシンゲの勉強などから、お経を上げていても、何回か上げる内に意味も、どんなお経でも、取れるようにはなっていた。
しかし、今日『リシュ経』を上げていて、その内容に驚いた。
その内容とは、お経なのにエロ小説並の内容なのだ。
大欲得清々
大欲は、清々を得る。
即ち、性欲は、清らか、というのだ。
これを見て、風呂に入ったが、こんなお経はあるなら、親鸞はどうなるのだ?と思った。
性欲に悩んだ親鸞は、全て捨て、人間は罪人だとアミダサマの慈悲にすがったのではないのか?
しかし、リシュ経は、奈良仏教で、親鸞以前なのは、もちろん親鸞ほどの学者が気付かなかったはすもない。
フジャインカイなどにとらわれたのか?
しかし、リシュ経があるのに???
風呂から、上がってもう一度リシュ経に上げた。
すると、立ってくるのが悟りだとか、貫徹するものは、性欲で
よきかな。よきかな。
とかいてある。
考えて見ると、般若心経など、上げ飽きているが、和尚ラジニーシや阿部敏郎が、千万言費やして、言っていることを、極めてまとめて、合理的に、且つ簡潔に言っている。
既にお経に説かれていた。既にお経に説かれていた。
何千年も、前に。
仏教を侮っては、いけない。
既にお経に説かれていた。既にお経に説かれていた。
ショウシンゲなども、多方向から、様々な角度から、アミダサマの慈悲を説いているし、吉本隆明の『信の構造』なども、ショウシンゲの解説本といってよい。
既にお経に説かれていた。というより、全てはお経に書かれているのかも知れない
