違った角度から話を進めよう。
法華経というお経がある。
美しく寓話に満ち、この日蓮をも虜にしたお経。私はそれを読んだことはないが、この宇宙は(考えられている)何と、その三千倍の宇宙があり、その三千倍の宇宙がまた、三千倍あるという(大三千世界という)
こう考えると、最大限の宇宙にたいし、最小限の宇宙ミクロコスモスについて考えざるを得ない。ケータイも原子で、原子も中性子と電子と陽子で、それも素粒子で出来ている。
ホントかな???
しかし、素粒子も何かもっと小さい物で出来ているはずだ。
素粒子というのは、重さと波の両義性を持つため、重いとは、思いで、それは、簡単に言えば、人間存在であり、人間の思いは波として計測され、物として計測されると物質であり、いわば素粒子とは、精神であり、肉体なのだ。重いとは、思いで、重いとは物質の質量で、思いとは精神だ。
考えとは、言葉を使った思いで、思いとは、感情と言葉が相乱れている。考え(言葉)では宇宙の果てや最小物質や死後を考える。
もう一度書こう。考えとは、言葉を伴った思いで素粒子の重さ。
人類が、神を求めて探求を初めどれくらいの時が経っただろう?
しかし、考えのもっと広めた「思い」
それは、素粒子が波として観測されたものとわかったのだ。
「初めに言葉ありき」とも「神意によれば、それは言葉」とも言われるが、思いとは、波の素粒子。重いとは、物質の素粒子。素粒子より小さい物はない。
それは、神であり、ベートーベンやモーツァルトや芭蕉やさいぎょうが表したものであり、神であり、
悟りとは、考えから言葉の要素を捨て去ったもの。
それを人類は、善なるものとしてきた。
動物にあるのは、思いでなく、本能だが、本能と思い、それは素粒子が精神としても観測されることから、進化論の間違いと共に、思いにより、人生は変えられると言わざるを得ない。