おっぱいの研究~ | ドイツのブログ

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私が、博士号を取り、子供と同居し、芸能人になるまでを描きます。

私は、昼御飯を食べに、四日市は尾平ドゥトゥールへ行った。妻と新婚時代を過ごした尾平へ行くと不思議と文章が浮かぶのだった。途上、おじさんバイクの上で、「おっぱいの研究」について書く予定だった。それはこうだった。昔「よいおっぱい悪いおっぱい」という映画があったが、無条件に男はたまらなくおっぱいが好きだ。渡辺淳一のような専門化、医学的な専門化は避け(おっぱいが難しくなるから)経験から書こうとした。妻は「ブスは、法律違反やぞ」のこえに「法律違反で、ごめんな!」と言ったが、例えば、いかにも軽薄で嫌いなおばさんのおっぱいでも、もし見せられたらおっぱいは好きなのではないか?女の価値にやられるのではないか?悪いおっぱいなどない。おっぱいは全ていい。
 
 
ドゥトゥールに着いた。男がいた。男を見ると私におっぱいについて語る資格などないのではないか?そして、男には腹が立つものだというだけか?ホモは論外だが、簡単に言うと優しい男の言葉にも愛を感じる時はないか?と思った。まとめると男にとって女は価値で、女にとって男は価値だ。しかしいかにも軽薄そうなおばさんのおっぱいの価値は、いわば肉体的なものだけで、同性の優しい男にかけられた言葉の価値は精神的なものだ。肉体的価値と精神的価値。そこに真の人間の価値が問われる。しかし、男にとって女はそのままあるがままで価値があり、簡単に言うと嫌いなおばさんのおっぱいに価値があるのだ。そして、食べていると男は欠伸をした。息抜き・…というが鼻くそを丸めながら原稿用紙に向かうような作家。哲学というようなものにもてを染めた作家は息抜きがなかった。芸術家に性欲の強い人は多いが、言葉が道具の作家に息抜きはなく、言語虫垂破壊するときだけに欠伸をし文が面白くないといけない比喩、例え、起承転結、文学理論でいう異化に囚われた作家に息抜きはなかった。帰り道、後ろの車の中で人が笑っていた。私は、世の中から一人取り残された人のように自分を思った。行き交う人に笑われながら…という甲斐よしひろの詞が浮かんだ。(こういう中で毎日私は生きている)そして、家に着くとなも知らぬ鳥が大きな声で鳴いていた。精神分裂の危機にとりとめもない思想が、無限後退のように僕を襲う。頭が痛くなるか?アクビが出てねむなくなるか?そして、怒りの爆発も、性欲の爆発も、日常にあるようで、大体にいきる人の中で私は私は天網と学問と完璧主義と異常と日常の間にあった。