12月の聖書の言葉
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
ヨハネによる福音書1章9節
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
(ヨハネによる福音書1章4節~5節、9節)
いよいよ2012年も最後の月を迎えます。今日我が家ではクリスマスツリーを出して、子どもと飾りつけをしました。夜、寒く、真っ暗な部屋で、優しく光り輝くツリーを見ていると、私の心が温かくなったように感じました。
「光」は一般に希望を象徴する言葉として使われます。聖書の中でも「光」は特に重要な言葉です。キリスト教では「光」はイエスさまを示す言葉として用いられます。イエスさまは私たちの世界に与えられた神さまからの希望だとクリスチャンは信じています。
聖書の最初の書物である創世記では、最初に神さまによって世界が創造されますが、創世記の最初の神さまの第一声は「光あれ」でした。聖書の最初に出てくる神さまの言葉が「光あれ」なのです。神さまは「光」、つまり「希望」を私たちに最初に与えられることで、この世界を秩序付けられたのでした。ですからどんなことがあっても希望は最後まで失われることはないのです。新約聖書の中では「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」とも記されています。希望が最後まで残る、神さまからの光はいつも私たちを照らしている、それを証しする出来事が、神さまから贈られた救い主・イエスさまの誕生(クリスマス)なのです。イエスさまは神さまから私たちへのプレゼント・「まことの光(希望)」です。だからクリスチャンはクリスマスをお祝いするのです。
今日私たちの世の中には、神さまが造られた「まことの光」ではなく、人間が作った「まやかし(人工)の光」が満ちています。夜になっても都会や都心部では明かりが煌々とついています。夜中でもいたるところで24時間営業のスーパーやコンビニエンスストアの明かりが輝いています。インターネットの「The
World at Night (世界の夜)」という英語のホームページ(http://bertc.com/subfour/truth/night2.htm)では、地球の夜の衛星画像が公開されています。その画像を見ると、アメリカ東部、西ヨーロッパが特に明るいことが分かりますが、それ以上に、日本は国土全体がひときわ明るいことに気づかされます。日本列島の形がはっきりとわかります。日本の夜がいかに明るいかが一目瞭然です(これだけの明かりをつけようとすれば、どれほどたくさんの電気を発電しなければならないことでしょうか)。
私は「夜の明かりは要らない」とは考えていません。例えば安全のために夜の明かりはある程度必要です。しかし同時に私は一人の牧師として、今の日本にはあまりにも「人工の光」が多すぎて、逆にそれで私たちが「まことの光」を見失っているように思えてなりません。私たち人間の命を照らす「まことの光」…愛、絆、信頼、希望というような大切な「光」を私たちは見失ってはいないでしょうか。
2000年近く昔の、電気の明かり一つない、星が空一面宝石のように輝く中東パレスチナの小さな村でのイエスさまの誕生の出来事は、私たちに「まことの光を見失わないように」と教えられているのだと思います。
私たちの人生の中には絶望や暗闇しかないと感じられる時があります。そんな時、「人工の光」は全く無力です。停電すれば「人工の光」は消えますが、「まことの光」は永遠に消えることがありません。「まことの光」だけが私たちのいのちを照らし、私たちを導き、励まし、希望を与えられるのです。
クリスマスツリーの明かりは、どんなにきれいであっても所詮「人工の光」です。私はそのクリスマスツリーの明かりに象徴される「光」、クリスマスツリーの背後で光り輝く「まことの光」を見失うことなく毎日を精一杯生きたいと願っています。
いつもより長くなりましたが、最後に中世のクリスチャンで、イタリア中部の町アッシジで生まれたフランチェスコという人物が祈ったとされる「平和の祈り」を記して私の12月の聖書の言葉とさせていただきます。
この一年間が皆さまにとって、幸多き一年であったことを強く願いますと共に、来る新年もまた希望と平安に満ちた一年となりますよう、強くお祈りしています。
平和の器
アッシジのフランチェスコ(1181-1226年)に結び付けられた祈り
主よ、私をあなたの平和の器とし、
憎しみしかないところに愛の種子をまかせて下さい。
痛みしかないところに、赦しを、
疑いしかないところに、信仰を、
絶望しかないところに、希望を、
暗闇しかないところに、光を、
また悲しみしかないところに、喜びを、
どうか、みなぎらせてください。
慰められることを願うのではなく、
慰める者となりますよう、
理解されることではなく、
理解することを、
愛されることではなく、
愛することを、
心から求める者となりますように。
私たちは与えられることにおいて受けるのです。
赦すときに、みずからも赦されるのです。
そして死において、永遠の生命に目覚めるのです。
(ヴェロニカ・ズンデル著、中村妙子訳『祈りの花束 聖書から現代までのキリスト者の祈り』, 新教出版社, 1987年, 30頁.)