6月の聖書の言葉
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マルコによる福音書2章13節~14節)
昨年のとある合同礼拝でのことです。私は園児たちに向かって「知らない人から声をかけられたら、ついて行っては行けないよ。でもイエスさまにはついて行ってもいいよ。イエスさまは『知らない人』ではないからね。」と話しをしたことがあります。
今日の聖書の言葉は、イエスさまがレビという徴税人を弟子として招かれた場面での言葉です。今日の場面ではレビはイエスさまの「わたしに従いなさい」という言葉を聞いて、何も質問することなく、すぐに「立ち上がって」イエスさまに従っています。レビはイエスさまからの弟子としての招き(「信仰への招き」と言い換えることができるでしょう)に即座に応えました。現代の私たちはどうでしょうか? 聖書を読んだり、イエスさまの言葉を聞いたりして、即座に「イエスさま(キリスト教)を信じよう」と決断できるでしょうか? なかなか難しいのではないかと思います。
「人間は考える葦(あし)である」とは、数学者・物理学者で宗教思想家でもあったパスカルが残した有名な言葉です。実はパスカルは、神さまを信じることについても、有名な言葉を残しています。パスカルは、神を信じるか信じないかは、理性によっては答えの出せない「賭け」であると言います。もし「神さまがいる」方に賭けたなら、そのことによって人間は正直になり、謙虚になり、感謝を知り、親切で、友情に厚く、まじめで、誠実な人間になる、この世にいる間、得をすることになるとパスカルは言います。そして仮に「神さまがいなかった」としても、そのことで「神さまがいる」方に賭けた人間は何も手放すものはない、損をしないのです。したがってパスカルは、賭けをするのなら、神さまがいることに賭けた方が良いと私たちに伝えているのです(パスカル『パンセ』233節)。いかにも思想家らしい考え方ではないでしょうか?
パスカルが考えたように、「信仰」は自分から信じて持つもの、自らが決断するものだと私たちは考えているように思います。でも本当は、私たちが信じようと決断する前に既に神さまが私たちのもとに来てくださり、今日のレビの場面のように、神さまの方から私たちに出会ってくださり、招いてくださっているのです。だから無理に「信仰を持とう」とか、「信仰を持たなければ」と考えなくてよいのです。必ず神さまからの呼びかけの声を聞いて、従っていくときが与えられることでしょう。