五反田ではたらく取締役のアメブロ

五反田ではたらく取締役のアメブロ

ナイル株式会社という会社の取締役です。Webに関わる仕事と経営に関わる仕事をしています。

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とてもアホみたいな内容の記事になるかもしれない。


あらかじめ断っておくともともとどちらかというと好き勝手やっていたタイプの人間なのでお前が言うな案件であることは間違いないのだがその辺はスルーしておくとして、ルールを作ったり守ってもらう側に回ったので、みんなが身勝手な言い分でルールが破られるのは当然良しとできない。

一方、こういう業界では、「ルールに縛られるな」とか、「ルールは壊すためにある」とかどっちかというとルールがあるからこうしてますみたいなことが悪だったり恥じるべきことだ、みたいな言い方をされることが多い。

で、そういうのに対して特に異論があるわけでないが、都合いい解釈されてもやはり困る。

多分、そういう話って、例えばこの記事にあるようにAirbnbが法的にはグレー(いいとも悪いとも決められてない)なところに需要があると見て民泊サービスを始めたとか、いわゆる「イノベーション」みたいな文脈でいうことが多い。従来のルールに縛られるな、ルールがないことはチャンスだぞ、みたいなところ。

あるいは、「それが古くからの習わしですから」みたいな、既に合理性を欠いていることがわかっているにもかかわらずそのルールを維持することが優先され、みんなから必要とされてる変化が生まれない、というのはなんとも馬鹿らしい話だ、という文脈で言われることもある。


別にそういうのを否定したいわけではなく。


言いたいこととしては、だからといって「赤信号だったとしても個々の判断で行けると思ったら渡っていい」「赤信号だからって止まるやつアホ」みたいなことを言っているわけでは決してないからそこは履き違えないでくれよ、ということだ。


極端な例では、東京都心部でその理屈に従って車が走ってたらどうなるかを想像する。それで交通事情はよりスムーズに、より安全なものになるだろうか?もちろんならない。


日本の都心部のこの異常なまでの交通量・人口密度でも、私たちが日々安全な移動が実現できるのは、「赤なら車は止まる」「赤なら人は渡ってこない」が前提になっているからだ。


これが個々の判断によって渡るか渡らないかが左右されては、当然のように事故は増える、危なくて最短距離での移動ができなくなる、などさんざんなことになる。


つまり「赤は止まれ」というようなルールは、あるほうが望ましいし、守るべきルールということだ。書いてみるとたいへんアホっぽいことを書いているが、これは先程挙げたようなイノベーションだとか旧態依然とした非効率な体質からの脱却のような話とははっきり区別しなければならない。


なぜルールがあるほうが望ましいか、というと、「それらが守られることで、個々が余計な判断をせずとも問題が発生しない。個々の解釈によらず、同じ結果が生まれる」ためだ。


ルールがなければ、「ルールがあり、それが正しく守られていれば不要だったものごとに対して、いちいち個々の判断を求めることになる。そこには個人の解釈が多分に含まれ、人によって異なる結果が生まれる」ことになる。


言い換えれば、

信号は守れ、という話であれば、赤信号なら止まればいいし、青になったら渡ればいい。それだけの話で済む。

ルールがなければ、というか、信号というシステムがなければ、ここで止まったほうがいいのか、渡ったほうがいいのか、について歩行者も車も常に考えながら移動しなければならなくなるが、それは脳の無駄遣いだし、なにより結果の不確実性が高まる(ここでは、安全が一切保証されなくなる)から普通に怖い。不本意な結果(ここでは、事故のようなこと)が発生すれば、それをリカバリーしなければならない。

 

あるいは、「渡ってもいいですか?」「いやいや、こっちが先に差し掛かったんだから待っててよ」「いや、どうみても私が先でした」みたいな本来不要なコミュニケーションが発生するかもしれない。


だからこそ、ルールがそこにあるならそれは守るべきものだ、というのを当たり前に捉えておくのはとても大事なことだ。


さらに合わせて考えておくべきなのは、既にあるルールは変更されたほうが良い、あるいは既に必要でなくなっている可能性は常にあるということ

ここでもむりやり信号の例で例えるが、

赤信号で1分くらい待たされたけどその間に1台も車が通らなかった、みたいなケース。


「赤信号だけど車が来てないから渡っていいや」は仕事ではダメ。これはただの独断でのルール無視となる。これを全員がやりだしたら大変なことになる。


ルールが何らかの妨げになっている可能性が高い場合に求められるのは


「ここは朝から晩までほとんど人も車も通らないので、信号そのものが要らない」

「車はたくさん通るけど人はほとんど通らないので、歩行者が渡りたいときにボタンを押す形式の信号に変更する」


という、仕組み側への対応だ。それによって新たなルールが生まれたのであれば、やはりそのルールは全員が守るべきだ。


まとめ

  • ルールがあることで判断の回数が減る
  • ルールがあることでコミュニケーションのコストが下がる
  • ルールは個々の解釈を介さず同一の結果を生む
  • 合理的でないルールは合理的なものに変更する
  • 既に必要性を失ったルールは廃止にする
  • ルールは守る

 


おわり
 

この2週間くらいで2人くらいに(それぞれの相談内容の本題は違えど)似たようなアドバイスしたので、その内容を切り口と文脈を変えてまとめておく。
 

  • 立場関係なく自分の意見ははっきり主張しよう
  • アイデアがあるならどんどん提案しよう
  • みんながそうだと言ってても自分は違うと思ったら意思表示をしよう


これらを否定する人はほとんどいないだろう。

でも、違う立場で

  • これといった代案は出てこないが、異議があることだけひたすら主張される
  • 全体である方向に舵を切こうとしているのに、いつまでも異議を唱え続けている
  • 決定事項に大して『納得できない』という理由でベクトルを合わせようとしない


これがどうか、というと、特に決める立場にいる人間からすればまぁ面倒くさい。

めちゃくちゃ面倒くさい。ただただ、面倒くさいという他ない。


そういうのによって得られるメリットは、だいたいの場合、異議を唱えている人間の自己満足が若干満たされて溜飲がすこし下がる、以外には何1つない。

逆に、アレコレ言われてる人間の時間ややる気が奪われ、プロジェクトの速度が落ち、全体のベクトルがあわないことでチーム全体の士気とパフォーマンスもグッと下がるなど、デメリットは盛りだくさん。


だったら、冒頭の話はただの建前じゃん。といえるかというと、もちろん、そういう話じゃない。


でもこれをちゃんと説明できないと

「意見ははっきり主張しろよ」って言われたり、
「後からグダグダ文句言うな」って言われたり、

相反する要求、理不尽な要求ばかりされている っていう感覚になってしまうので、ちゃんと分解して理解しておいたほうがいいだろう。



とは言っても話はシンプルで、


個人のわがままを何がなんでも通そうとする or 自分を殺して我慢して従う みたいな二択で考えているのなら、それがそもそも間違っている。

そうではなく、しっかりした仕事のコミュニケーションをとり、チームの約束事を守りましょう。

という話でしかない。



しかし、多くの人がそうであろう「普通の考え方」だと

1.言ってるのに伝わらない。わかってくれない。
2.提案してるのに反映してくれない。
3.自分の意思に反する決定をされて納得がいかない。


とかがメジャーだと思うけど、「伝えたら、伝わる」「良い商品なら売れる」「良いアイデアなら採用される」が道理となるなら、この世の中に営業マンもマーケターもデザイナーもコピーライターも要らない。でもそうなってはいない。


1.に対して。
伝える方法、伝える手順、伝える相手、伝えるタイミングのどれかが悪く、そのため正しく伝わっていないだけ。あるいは、自分でも何を伝えたいのかよくわかっていないかもしれない。

2.に対して。
全員の意見や提案に耳を傾けることはしても、全員の提案を反映するのが決定者の仕事ではない。むしろ、ほとんどの提案を切り捨てたり優先度をつけたりして、今やることを決定してその結果に責任を負うのが決定者の仕事。

3.に対して。
決定事項に納得するべきかどうかは自分が決めてよく、納得しなければやらなくていい、という発想が違う。決定者がその責任のもとで決定した決定事項には、全員がその意図に従って行動することが前提(※)。

※そうでなければ組織で物事を決定する意味がない。そのための組織であり、リーダー。その前提が崩れるなら全員が自分の判断で勝手に行動しているのを良しとするのと変わらず、それであれば責任者なんて不在でよいしもっと言えばチームも必要ない


あたりがおそらく正論だろうと思っていて、それをベースに考えるなら本題である「自分の意見の主張の仕方(と、その引き際)」としては


(0.自分の話を聞いてほしいだけなら、聞いてもらう以上を求めない。)
1.採用されたい意見があるなら、どうしたらそれが採用されるかを考えて、実行する。
2.その上で「そのアイデアは採用しない」となれば、その時点ではそれ以上を求めない
3.決定事項には従い、その決定事項が正解になるように務める



とするのが正しく、大きな決定権を持つ立場にいる人、あるいはそういう立場になっていくような身近な人たちは、基本的にはこんな感じの人が多いように思う。


↑ここが結論。

そうした上で成果につながらないのであればリーダーの責任といえるけどし、そうでない状態で成果につながらなったとしても、それは意思にしたがって行動しなかった者たちの責任が大きく、リーダーの決定事項が悪かったという判断とはならない。
※ただし、そんなチーム状態を作ったリーダー自身の責任も大きい


最後に、コミュニケーションは一方では成り立たないので、反対側の立場からいえば

・「個人の感想」に良し悪しを求めない、何が正解とか間違いとかもない
・意見や提案はとりあえず全部聞く、玉石混交であがってきている状態が正常
・意見全部聞いた上で、取捨選択と優先順位付けをするのが決定者の仕事
・意図と方針を共有しGoをかけた後は、その意図を汲んだ行動をしていない者や意に反した行動を取る者には、はっきりと「それではダメ。これに従いなさい」という姿勢を示す


みたいな感じか。

評価は公平にできても、感情や印象は公平にはなり得ない。みたいな話をしたいのだけど。

なんというか、ジャイアン効果というか「もともとワルかったやつが更生して努力して普通になったらめっちゃ偉い」みたいな風潮に対して、いやいやもともと真面目にやってるやつはもっとえらいじゃん。真面目なやつが損をしてるじゃん。みたいな話がたまにある。

そりゃそうだと思う反面、しかし、「もともと真面目にやってたやつが今もそのまま真面目に努力してる」とかストーリー的には1ミリも面白くない。

むしろ面白さだけなら「学生時代くっそ真面目な優等生だったやつが30過ぎてそれなりの社会的ポジションを得てついに女遊びを覚えてピンクポイズンにはまって社会からはじき出されて堕落する」とかのほうがまだ話のネタとしてはよほどマシだ。

つまり

どっちが偉いか、どっちが評価されるべきか、みたいな話は最初から誰もしてなくて、

「誰かと誰かが同じことをしたとき、その人たちの個性や背景が全く違えば周りのひとが受ける印象も全く違うものになる場合もある」

というだけの話だったりする。

で、いざ、その人たちがしたことを評価しましょう、という話になれば、当たり前だけど同じことをやってるんだから同じ評価になるか、前から同じようなことを普通にやってきた人のほうが積み重ねがある分偉いよねってなるか、なので、どっちが得してるか、といえば最初から真面目にいいことしてきた人が得だよね、となるのが普通だろう。

なので、別にここでいうとこの「真面目にやってるひと」が損してる、なんてことはまず常識的な世の中ではおきていないはず。(もし、真面目な人よりも昔悪かった人が高く評価されてるなら、「今はその人のほうが優れている」というだけの話で昔の話は特に何も関係ないはず。)

冒頭の、悪いやつがが更生して~みたいな話も、あくまでもストーリーとしての面白さとか魅力みたいなものとか、その人の過去と今のギャップをカッコいいと思ってるだけ、ということなので、

もしもともと真面目にやってた人が、自分がそういう「ストーリー性」という点で損していると思うなら、逆に思いっきりピンクポイズンにはまったり出会い系サイトでの恥ずかしいメッセージのやりとりをTwitterで拡散されるとかするとストーリー的には超面白いのでやってみればいいと思う。


というのはさておいて。

仕事において「誰が言ったかじゃなくて何を言ったか」とか言われるのは「情報や出来事を、主観を除いて客観的に評価し、判断しろ」という話。これは、「ある情報の価値はその発信者によらず同じである」という約束事と言い換えられる。

一方で、「やる気が出る」「ムカつく」「がっかりする」「嬉しい」みたいなのは、残念ながら「何を言ったかそのものではなく、誰が、どのように言ったか」で大半が決まる。ていうか、決まるよね?例えばわかりやすいリアクションでいえば「お前が言うな」とかそういうやつ。

ということで、ちょいちょい前から似たようなこと書いてるけど、仕事のコミュニケーションには「情報」のやりとりと「感情」のやりとりがあり、ある情報が感情を大きく動かすこともあるし、様々な感情の積み重ねが情報そのものの受け取り方を捻じ曲げてしまうこともある。というのがコミュニケーションの難しいところなので、まずその2軸を区別して考えるところから始めるのが良いんじゃなかろうか。

 

同じように言っているのに受け取り方がバラバラだ、正しいことをやっているのになぜか一部から反感が生まれる、、、みたいなことで悩んでる人も多いでしょうが、基本的には「それが当たり前」なので、普通にやってたらそうなる。なので仮にそういう状況があったら「まぁ実際こういうもんだよな」とするのが正常だろうし、自分の周りであっても「あ、そうなんだ」くらいにしか感じない。

 

でも、それは普通であっても、理想とは全く違う。では、どうするか?

 

で、それを考えるのが、組織におけるコミュニケーションの努力だったり工夫だったりする。そして、その努力と工夫はどんな組織であっても必要だ。という話で終わります。