感謝します。
チェンナイの事務所で働き始めました。
インドの社長は、事務所がちゃんと回って、工場が立つまではインドには出張という形の為私一人で事務所で働く日々が続きました。
ベンダー会社と言って、ヤマハへ部品を下ろす他の日本の会社も入り、海外進出を支援する豊田商事と共に働く日々が始まりました。
この間に、工場を建てる為の申請書類や会社設立の為に銀行口座を開設するなど、書類の準備や実際にオフィスに出向いての交渉をしたりと今まででは経験できない事を経験しました。
月に一度は、関連会社とヤマハとの会議が行われました。
この会議では、毎回ヤマハの責任者が、インド政府との交渉過程を説明するのですが、毎回政府に提出した書の受理手続きに時間がかかったり、土壇場になって、工場地の土地の持ち主が駄々をこねて売りたくないと言い出したりした為に先送りが続きました。
この時感じたのは、製造業界の方々の熱意と辛抱強さです。
海外生活に慣れている私でも、チェンナイでの生活は過酷でした。
あまりにもローカル色の濃い文化と食生活、インフラの不安定さが故にしょっちゅう停電があり、単純なコピー機のトーナーの入れ替えに3日ぐらいかかり。(トーナーを持ってくるたびに、インクが乾いてしまっていて出ない事がわかるので)
ある会社の社員の人は、インドに降りたったらすぐ下痢になると言っていました。
ずいぶん精神的な苦労があったのでしょう。
そんなこんなで、同じような環境で働く女性達とのネットワークも出来だし、チェンナイでの生活や、私の他の会社と比べての在り方などが判るようになってきました。
こんな中で、まだ私のオーストラリアでのビザの環境が、永住権ではあるものの、ある程度の期間オーストラリアに住んでいないと今後ビザ延長はしにくくなるということもあり、この面白いけれどインドに長く住んでいく経験は終わりにする事にしました。
これだけではなく、日々あまり良い状態でない水でシャワーを浴び、頂く食物の中にも身体に合わない物が入っていたようで少しずつ身体に異変が起こり出していました。
精神的にも、ハッピーでない事もあったかもしれません。
唯一の救いは、最後にどうしてもしたかった、亡くなった師匠の家を街でも顔の知れた、信用できる人に託してこれた事です。
この作業をするのにも、気の遠くなるような待ち時間と辛抱強く事務所の担当者と掛け合い、その場所まで出向くという事をしました。
今になっては、笑えますが、この作業の進行中にお役所が政治的変革への抗議としてストに入り1ヶ月以上公的機関が全て停止しました。このような事は先進国ではもう起こらない事だと思います。
このような事が起こるとインドの田舎ではまだまだ、不安定な事が多いのだとただ驚くばかりでした。
こんな最後の難関を終えて日本に帰国する事にしました。
その後日本に滞在したのかどうかは、次のブログで書きますね。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
