プラレールの上を、電車が走っている。同じところを何度も何度もぐるぐると。
電車は思う。
”あ~、いつも同じところを回ってるなぁ~”
”たまにはレールを外れてみたいなぁ~”
と。
そしてある日、その電車は思い切ってレールを外れた。
その電車は、レールなき床を走っていった。そして壁にぶつかり、ひっくり返った。
ガ~ガ~ガ~ガ~
タイヤが回り続ける音がする。
この音は、電池が切れるまで鳴り続けるだろう。
そしてこの電車が元のレールに戻ることはない。
誰かが助けてくれない限り。
レールを外れるだけでは、どこにも辿り着かない。
レールを外れる前に、どこに行きたいのかがわかっていなければならない。
その目的地に向かうためのレールを敷き始めなければならない。
いままでのレールとは違う。
新しいレール。
誰かが敷かなきゃ新しいレールは生まれない。
そのレールを敷くのは誰なのか?
そう。誰も敷いてくれない。
自分で敷くしかないのだ。
そこでふと思う。
あれっ?
レールってどうやって敷くんだろう?
と。
親になってみて、 初めてわかることがあります。
その一つが、子どもに”レールの敷き方”を教えることの難しさ。
いま風に言えば、”キャリアプランの描き方”でしょうか。
かつて僕は、社会が敷いたレールの上なんて歩きたくないやい!
大学に進学して大企業のサラリーマンになるのなんて、まっぴらゴメンだ!
そう思って会計士になったけど、それはそれで会計士というレールの上を歩いている訳です。
このレールは誰かが敷いてくれたもの。決して僕が敷いた訳じゃない。
このことに気づき、感謝できるようになったのは、つい最近のこと。42歳になってから(遅!)。
それまでは、自分はできる(はず)。自分は一人でもやっていける(はず)。自分は自分はと自分中心で物事を考えていた。
でも、人生で必要なものが100あるとして、自分一人でまかなえるものは1にも満たない。
飲み水すら見つけられないし、米も育てられない。着る服を縫えないし、家も建てられない。しゃべる相手もいなけりゃつまんない。怒ることも笑うこともできない。嫌いな人もいれば好きな人もいるのが社会。学校でも会社でも家族でもそう。自分一人になった瞬間にすべてが止まる。所詮、人は一人では生きられない。
ということで、基本、社会にたくさんのレールがあり、そのレールの上でたくさんの人が働いてくれているおかげで、僕の生活は成り立っている訳です。
ありがとうございます。
なんだけど、やっぱり捨てきれない思いもある訳です。
それは、自分ならではの新たなレールを敷きたいな、という思い。
いまの社会をより良くするために、そして子どもたち、さらには後の世代により良い社会を引き継ぐために。
ま、半分以上は、自分が生きた証を残したい、という我欲によるものなんでしょうけど、それはそれで良いとしよう。
お金でもなく名誉でもなく、実際に誰かの役に立つものを残したいというのは偽らざる本音なのだから。
単線でも、1駅でもいい。どこにどんなレールを敷けばいいのか。ここかな、あそこかな。ここと、あそこを繋げば面白くなるかな。
いつもそんなことを考えながら、新しいレールを敷く努力を続けています。
そして、子どもたちにも伝える努力を続けています。
社会にはたくさんのレールが敷かれていること。これほどたくさんのレールが敷かれている理由。これらのレールは誰かが敷いてくれたものであること。これらのレールの上でたくさんの人が働くことで社会が成り立っていること。同時に、これらのレールを外れることもできるということ。ただし、そのためには新たなレールを自分で敷かなければならないということ。そのレールを敷くには、仲間が必要だということ。でもその仲間を頼ってはいけないということ。甘えてはいけないということ。まずは自分をしっかり持つこと。たとえ一人でもやるんだという覚悟を持つこと。その覚悟を持てないうちは、しのごの言わずに、目の前にある仕事(や勉強)に打ち込むこと。
その仕事は誰が与えてくれたんだ?
なぜその仕事がお前に与えられたんだ?
その仕事が嫌なら何の仕事をするんだ?
幾千万もある無数の選択肢の中から、自分がなすべき仕事を自分で取捨選択できるのなら、それも良かろう。でもその判断をできないうちは与えられた仕事をやり遂げよ。好き嫌いは言って良し。つねに正直であれ。ただし、それを自分がやるべきか否かを語れるようになるには長い時間が必要だ。もしかしたら死ぬまで答えを出せないかもしれない。なぜなら、どんな働き方をするにせよ、自分の目の前にやってくる仕事は、自分がやるべきとは思えない仕事ばかりだからだ。そしてそれは当たり前のことなのだ。
他人からお金をもらえる仕事とは、他人の嫌がることをやってあげることだ。だから、自分の目の前にやってくる仕事は、そもそも自分がやるべきことではない。相手がやることなのだ。にもかかわらず、相手のために自分がやってあげる。それが仕事なのだ。そして、もしこの仕事が自分にとっても苦痛ではなく喜びになったなら。それは天職であり、僕がジブンノシゴトと呼ぶものである。その時、初めて新しいレールを自分で敷けるようになる。自分ならではの仕事のやり方が決まっていくからだ。
いままでのレールと大きくは違わないかもしれない。でも、その新しいレールはあなたがいなければ敷かれないものである。そしてそのレールの上を新しい人たちが走ってゆくかもしれない。そしてまた、そのレールから更に新しいレールを敷く人が現れるかもしれない。それはとても素敵なことだ。
そんなことを一つ一つ、あらゆる場面を通じて子どもたちに伝えて行きたいと思っています。とはいえ、伝え方には相当の工夫がいるから、なかなかの難題です。
ま、伝えたい中身がはっきりしていれば、いつか何かが伝わるでしょ。
なんせまだ10年以上あるし。
うちの息子たちはまだ小学生だし。
線路は続くよどこまでも♪
ってことで。
日々素直
我以外皆我師也
2016年4月30日(土)
土肥卓哉