はいどうも4月1日のエントリが少し波乱を呼んでしまったTaKaYaMaです。

「ドッグトレーナーを辞めるってどういうことですか?」的なメールや電話やをいくつか頂戴して、慌てて携帯でエントリを更新しました。
僕の思惑としてはですね、「ドッグトレーナー辞めます」というエントリを書いて、「はいはいえいぷりるふーるえいぷりるふーる」って軽~くスルーされて、「いや、本当に辞めるんですよ」っていう二段構えだったんですけれども。

あ。
本当に辞めますドッグトレーナー。
このブログのタイトルも「ドッグトレーナー、大学へ行く」から、「イヌの言い分、ヒトの都合。元ドッグトレーナー、大学へ行く」に変わってますでしょでしょ?

そんなわけで、辞め辞め詐欺の真相と、「やっててよかった行動分析」の最終回をあわせてどうぞ。
今日のこのエントリは、行動分析学に出会わなかったら、絶対に出てこなかったものだと思うので。


「あたし、ドッグトレーナー辞めようかしら」

このことは、実はここ2年ぐらいずーっと考えてたことではあるんです。

 「自分の仕事」
 「自分がやりたいこと」
 「自分のやるべきこと」

この辺をぼんやりと考えていて、去年の秋頃から特に考えるようになりまして。
年明けて、多分2月頃には結論を出してました。

僕の仕事ってなんだろうと。
「ドッグトレーニング」「ドッグトレーナー」なのかと。
ここのところで、結構引っ掛かりながら日々を過ごしてたんですよね。
考えながら過ごすうちに「もう、ドッグトレーナーじゃないかもなぁ」と思い始めたんですね。

そもそも、飼い主さんが求めてるものって、なんだろうと。
「しつけ」とか「トレーニング」とか、そういうものなんだろうかと。
きっと「愛犬との楽しい暮らし」なんだろうと思うんですよね。
「トレーニングをしたくて、イヌを飼い始めた」って人も、まあ中にはいらっしゃるとは思いますが、そんなに多くはないでしょう。
ほとんどの方は「イヌと一緒に暮らしたら楽しいかも」って思って、イヌを飼うんだと思うんですね。

じゃあ、誰かと一緒に暮らし始めるときに、もっとも大事なのは何かというと、それはきっと「コミュニケーション」だと思うんですね。
「意思の疎通」とか。まあ、そういうの。
でも、イヌはあくまで「イヌ」ですから、言葉が通じません(中には「通じる」って人もいるかもしれませんが)。
そうなると、なかなかこの「意思の疎通」「コミュニケーション」ってのが、やっぱりちょっと難しくなっちゃうこともあると思うんです。

イヌと日々生活をしていると「なんで?」っていうことが結構あったりします。

 「なんで吠えるの?」
 「なんで噛むの?」
 「なんで暴れるの?」
 「なにか気に入らないの?」
 「なにが楽しいの?」

こういうのが、いまひとつよくわかんないってことが、結構ある。
イヌは本当に色んな行動をするわけでして。
それぞれの行動には、必ず意味というか、理由というか、目的がある。
たとえば「無駄吠え」なんて言われたりすることもありますけど、イヌにとっちゃ無駄でもなんでもないわけです。
ちゃあんとした理由や目的があって、イヌは吠えてるんです。
しかし、飼い主さんにとってはこれ「無駄」だったりするわけです。

イヌにはイヌの「言い分」ってものがある。
それはわかる。それはきっとそうだろう。
じゃあどんな「言い分」があって、それをやってるのか?
そこが、よくわからない。
そして、ヒトにはヒトの「都合」ってものがある。
ところが、そんな「都合」は、イヌはわかんないし、知らない。
たとえば、なんでか知らないけど吠えてると。
何かしらの理由があって、きっと吠えてるんだろう。
でも、ずーっと吠えられるというのは困る。
一緒に暮らしていく上で、それではちょっと楽しく暮らせない。
こういうギャップというか、齟齬というか、そういうものが「しつけの問題」とか「問題行動の悩み」みたいなものとして、表面化してくるんだろうと。


「イヌにはイヌの言い分があって、ヒトにはヒトの都合がある」


で、これって結局は「コミュニケーションの問題」だと思うんですね。
双方の言い分と都合が、うまくかみ合わない。
それぞれ相手に伝えたいこと、伝わって欲しいことがある。
でも、いかんせんそこが伝わらない。

じゃあ、どうやって伝えるのか?
何で繋がるのか?

「コミュニケーション」っていうのは、「お互いのやり取りの結果、成立するもの」なんです。
どちらか一方だけが努力して、頑張ってってのは、コミュニケーションっていうのとは違いますよね。
ヒトだけが努力するのでもなく、イヌに努力させるのでもなく、お互いのやり取り、歩み寄りみたいなのが必要だろうと。
でも、やっぱり「違う生き物」ですから、どうやってやり取りすればいいのか、歩み寄ればいいのか、わかんない人も多いと思うんですよね。
イヌも、うまくわかってなかったりね。

そして、僕がやってる「行動分析学」っていうのは、その「言い分」ってものを、行動を通してちゃんと理解しようって学問でもあるんです。
「ちゃんと」っていうのは、「科学的に」ってことね。
一方の勝手な思い込みとか、勝手な解釈じゃなくてね。
「行動を通して」ですから、イヌだろうとヒトだろうと関係ないわけです。
つまり、私たち人間と、イヌという動物は「行動を通して」繋がってるわけです。


「ヒトとイヌを繋ぐのは、行動だ」


そういったイヌとヒトとの、「行動を通したコミュニケーション」「繋がり」「やり取り」「関係」ってのを支える、サポートするのが、僕の仕事なんだよなと。

そこから考えるとですね、なんか「トレーニング」ってね、「イヌを訓練して変えちゃうんだぜべいべ」的な空気というか、雰囲気を感じちゃうんですよね。
いや、人によってここのイメージは違うと思います。
でも、僕はそう感じちゃったんですね。
なんかね、「しつけ」とか「トレーニング」とかが持つイメージというか。
同時に、「飼い主のトレーニング」ってのも、なんか違うんですよね。
なんかね。
「トレーニング」とか「行動を変える」とか、そんなんじゃなくて。
もっとこう、根本的であり、同時にそういったものの先にあるものを、いかにお伝えしていくかっていう。
そこが仕事だろうと。
これはもう、はじめて立命館で講義を受けたときに聞いた言葉から、大きく影響を受けてます。

 「行動を変えるってことに関しては、行動分析学は行きついちゃってるんだ。
  だから、行動を変えるだけで、満足しちゃいけないんだ。
  その先を、我々は考えていかなきゃいけないんだよ」

僕が衝撃を受けた言葉です。
ビビビって電流が走りました。
そのときは、「行動を変えるってことに関しては、行動分析学は行きついちゃってる」こっちに強く引っ掛かったんですよね。
「やった!これでどんな問題行動もなおせるトレーナーになれるぞ」って。
実際、「どうやったらなおるのかなぁ?」なんてところで、悩むことはほとんどなくなりました。

でも、それでいいのかいと。
「問題行動をなおす」それだけで満足なのかいと。
この2年ぐらいは「行動を変えるその先」ってのが、割と重ーく僕の中にありました。
そこでようやく見えてきたのが、「コミュニケーション」でした。


 「トレーニングじゃなくて、コミュニケーション」



こんなことを考えながら、多くの飼い主さんと接してると、あることが見えてきました。
それは「飼い主さんは、イヌの行動の理由を知りたいんだ」ということ。
前は「理由はどうあれ、行動が変わらなきゃ意味がないんだから」とか、ちょっとシニカルに考えてたりもしたんですけど、でも理由がわかることで、ちょっと余裕というか、ゆとりを持てるようになる飼い主さんが結構いるんですよね。

 「だから吠えてたのか」
 「だから噛んでたのか」
 「だから言うこと聞かないのか」

こういうことがわかって、はじめてイヌと向き合える。
イヌと、やり取りする準備が整うというか、そういう方は結構多いんだなと。

そして、「行動分析学」というのは、相手の行動を「条件づけ」や「行動変容のテクニック」でもって、どんどん変えていくっていうものではなく、相手をとことん尊重して、いわば「相手の気持ち(あえて気持ちといいましょう)に、どこまでも寄り添っていく学問」だと思うんです(ちなみに僕は、これは「愛」だと思う…恥ずかしいけど 笑)。
確かに、行動の見方、捉え方がちょっと独特だから、わかんない人も多いんだろうなとは思うんですけどね。
「行動分析学は、動物を機械のように考える」とかね。
そんな風に考えてないよ。

こういう視点から、改めて「ドッグトレーニング」「ドッグトレーナー」というものを見ると、なんとはなしの違和感を持ってしまうのですよ。
いや、実はね、「ドッグトレーニング」も「ドッグトレーナー」も、本来は、本来は「コミュニケーション」なんだよっていう思いも、僕の中には大~きくあるんです。
あるんだけれども、です。
「ドッグトレーニング」「ドッグトレーナー」って言葉は、もうたくさんの人が触って、手垢がついちゃってるんですよね。
でも、手垢のついた言葉って、結構肌ざわりもよかったりするんです。
ところが、肌ざわりがよすぎると、結構するりと手から抜けちゃうような、そんな気もするんです。
いやいやもうちょっとさ、もうちょっときちんと手に持って、考えてみようよっていう。
「ああ、トレーナーさんね?じゃあ、訓練とかしつけとかして、なおしてよね」みたいな、いやいやちょっと待ってよっていう。
そうなると、もうまったく別の、全然違う、ちょっとゴツっとした、手に持ったときに「ん?なんだこれ?」ってなるような、そういう何かで表現した方がいいんじゃないか。
そんな風に考えて、「ドッグトレーナー」ってのはもう辞めようと思いました。
あとは「しつけ」とか「トレーニング」とか「トレーナー」とか、そういう枠からもう出ちゃいたかったっていうのもあります。

僕の理想はですね、イヌもヒトも別になんの努力もしなくても、自然とコミュニケーションが取れて、暮らしが楽しくなっていく…そういう感じなんですよ。
特に何かやったってわけじゃないんだけど、気づいたらうまく回ってて楽しいぞーみたいな。
トレーニングなんか全然要らなかったぞーみたいな。
まあ、これはあくまで理想でね、実際できてんの?って聞かれたら、そこはごめんなさいって言うしかないところもあるんですけど。
でも、イヌをトレーニングして、なんか頑張らせるのは違うと思う。
これは、ヒト、つまり飼い主さんに大しても同じだと思うんです。
なんかね、最近ね、「犬のしつけは飼い主次第」みたいなのがね、結構言われたりするようになって、僕も同じこと言ってたんですけど、どうも「飼い主さんが頑張りましょう」みたいな、なんかそういう空気を感じるんですよね。
飼い主さんが頑張らなくてもいいように、こっちでサポートしようよっていう。

そう、「サポート」これなんですよね。


「ヒトとイヌのコミュニケーションのサポート」



お手伝い。
援助。
支援。
御用聞き。
まあ、この際ニュアンスが伝わればなんでもいいんだけど。
そんな感じです。


えー、だらだらと書いておりますけれども、ひとまず「トレーナー」には、一旦緞帳を降ろします。
第二幕スタートって感じですか。

窮屈なんですよね。
この「トレーナー」ってのが。

てことで、今着ている「トレーナー」は脱いで、衣替えです。
春ですし。
ただ、何を着ようか、まだ迷ってる感じ(つまり半裸状態?)。
一応、名刺には「Dog Life Producer」とかいう冗長な肩書き載せてるんですけどね。
こないだは、某所で「はいぱーりれーしょなるくりえいたー」という、胡散臭いこと極まりない名前もつけてもらいましたけれども。
イメージとしてはね、「サポーター」が一番近いんですけどね。

とりあえず、今のところ半裸状態ではありますけれども、おかげでちょっと肌寒いですが、風邪ひかないように頑張りますので、今後ともどうか温かい目で見てやってください(「サポーター」って、スタジアムで半裸の人多いし、いいかもしんない)。
つまり、服は着替えますが、僕自身は変わりありません。


ヒトとイヌのコミュニケーションをサポートして、
暮らしを楽しく、楽にしていくお手伝いをする。



これが僕のお仕事です。
根底にあるのは「正の強化で維持できる、行動の選択肢の拡大による、ヒトとイヌのQOL向上」です。
てことで、ひとまずはこんな肩書きでいいんじゃないかなと思って披露したんだけど、えらい不評でした。

「正の強化師」

いいと思うんだけどなー。
「なんか詐欺師みたいー」とか言われちゃったしなー。
「みんなでTシャツにプリントして着ようよ」って言ったら「えー絶対やだー」とか言われちゃったしなー。

「負の強化師との戦いを日々続ける、正の強化師」とかどうすか。
ダメすか。
そうすか。

むむん。

ま、そんなわけで、今後ともよろしゅうお頼み申します。