暑い暑い。というか熱い。もう嫌だ。

皆様いかがお過ごしでしょうか?
例年よりも随分早い梅雨明けとなりまして、「梅雨明けです」と言った途端に雨が降るなんてこともなく、今日もよく晴れていますね。
こう暑いと、日中はほぼ仕事になりまっせん。


あ、さて。
先日のブログにおいて、こんなことを書きました。


僕は、徹底的に相手を尊重したいと思うんです。
「楽しく生きていければ」というのも、実際のところは犬が楽しんでるかどうかわからない。
じゃあ、どうやってそこを見るのか?考えるのか?
そこで使えるのが、行動分析だと思っています。
こちらの思いを相手に一切押し付けることなく、丁寧に相手のことを見ていく。
これが行動分析学ですから。


このことについて、もうちょっと詳しく!という声がありましたので、改めて。

「いぬのきもち」

これは、みんな気になるところですよね。
そういう雑誌もあるぐらいですしね。

では、それをどう考えるのか?というお話。

「犬が考えていることは、誰にもわからない」ってのは、これはもうしょうがないことなんですよね。
いや、中には「私はわかりますよ」って人もいるかとは思うんですが、まあそれは置いといて。

自分が何かをしているときの「気持ち」を、誰かに勝手に判断されたら嫌でしょう?
僕はとても嫌です。
しかも、それが合っているのならともかく、間違っていたらと思うとね。

簡単にいえば、このことを言ってるんですね。

そこで行動分析は、限りなく「行動と環境との関わりを見る」わけです。
繰り返し、繰り返し、丁寧に、丁寧に。
すると、見えてくるものがあるわけです。
それは、「行動の機能」です。
簡単にいえば「なんのためにやっている行動なのか?を考える」ということ。
行動には、何らかの「目的」があります。
その「目的」をみましょうということなんですね。

たとえば、「飼い主に対して唸る・噛む」なんていう行動があったとしましょう。
そのときに、どう見るか?

まずは「何がきっかけになっているのか?」を見ます。
「飼い主さんの手」だったり、「飼い主さんが急に動く」だったり、もっとピンポイントで「持ってるおもちゃを取られそうになる」だったり、「ソファーから下ろされそうになる」だったり、まあ色々とあるでしょう。
そして、次に見るのは「では、どうなったか?」を見ます。
つまり、「唸る・噛む」という行動をしたら、どうなったのか?です。

大体の場合、「唸る・噛む」という行動を犬がしたら、飼い主さんはそれまでの行動をやめます。
「手を出していた」のなら、「手を引っ込める」でしょうし、「急に動いた」のなら、「一旦止まる」でしょうし、「おもちゃを取ろうとした」のなら、「取るのをやめる」でしょうし、「ソファーから下ろそうとした」のなら、「下ろすのをやめる」でしょう。

一つ取り出して、見てみましょう。

 手が出てくる → 唸る・噛む → 手が引っ込む

こういう流れですね。
ここで次に考えるのが、「機能」です。
つまり、「なんのために、唸ったり噛んだりするのか?」を、考えるわけです。
上の流れを見れば、一目瞭然ですね。
「手が引っ込む」ということが、起こっています。
ということは、「手を引っ込めさせるため」「手を遠ざけるため」に、「唸る・噛む」ということをやってるんだろうと考えるわけです。

しかしこれは、「一回だけ見ればわかる」というものではありません
何度も何度も見て、考えて、はじめて「ああ、そういうことだったのか」と見えてくるものなんですね。
だから前回のエントリで「一回しか起こらなかった行動については、何もいえない」ということも書きました。

それでも、それは「見えてきたもの」であって、やっぱり「本当のところはわからない」ものなんです。
この「実のところはわからない」というのは、結構しんどいというか、いやーな感じがしますよねぇ。
「わからない」んだもの。
だから人は、色々なものに名前をつけるんだろうと思います。
名前をつけちゃえば、なんとなく安心できるから。
「これは支配性からくる攻撃行動だ」って名前をつけちゃえば、なんとなく「わかった」気になりますものね。

でも、そうじゃなくて。

この「わからない」ということを、「わからない」まま、いわゆる「あるがまま」受け止めるというのは、大事なことなんだと思います。

行動分析学って、なんだかね、「ご褒美と罰を出したり引っ込めたりして、相手をどんどん操っちゃうテクニック」みたいに思ってらっしゃる方も多いと思うですよね。
そして、「だから、相手を理解するということからは、ほど遠い」みたいな。
僕は、これは「いや、違うと思う」って言いたい。
むしろ、「相手をこっちの都合で、勝手に理解するということからは、ほど遠い」なんだと思います。

少し前に、「I wonder what will happen if...」という、ある行動分析家の言葉を紹介しました。

I wonder what will happen if...
I wonder what will happen if... 行動分析学的ココロ

どちらのエントリも、この「こっちの都合で、相手を勝手に理解しない」ということなんです。
これは、僕が現在師事している立命館大学の望月教授も、繰り返しおっしゃっています。
たとえばこちら↓

デニーズへようこそ、お客様の平均年収は? (望月昭のHP 最近考えること)


「行動分析は相手の気持ちを無視する」とか、「行動分析にはココロがない」とか言われたりもするんですが、僕は「いや、めちゃくちゃ人間味溢れてるでしょうよ」って思うんですよね。
ほんと、相手のことを、丁寧に、丁寧に見ていくっていうね。


なんだかよくわからないエントリになっちゃってるかもしれないけど、まあいいや。


でねー、最近はですねー、↑にも登場している、この「望月昭」という人の実践されてきたことを、一つ一つ読んでるんです。
もうねー、すごいわけなんですよ。
簡単にいえばね、「問題行動を問題にしない」ということ。

「問題行動をなおしてから、その人のやりたいことを
やってもらうんじゃないんだ。

問題行動があってもいいから、
その人のやりたいことをやってもらうんだ。

いつか、できるじゃ遅い。今、ここで叶えるんだ」

こういうメッセージを、びっしびしと感じるわけなんです。
別にこれは「問題行動がなおせないから」って話ではないんですよね。
でもって、さらに…

「問題行動をなおすとか、そんなことはもう当たり前なんだ。
できて当然なんだ。
その先を、プロがどれだけ用意できるか?が、大事なんだ」

このような叱咤を、受けているような気がするわけなんです。

そんなわけで、ここ最近はこの「問題行動を問題にしない」ということについて、ぐるぐると考え続けている最中です。
全然見えてこないんですけどね。(´・ω・`)

だってさー、やっぱりさー、目の前に「問題行動」があったらさー、なおしたいと思っちゃうじゃん。
でも、それじゃ全然足りないんだっていうんですよぉ。
なんなら「間違ってるぞ」って言われてるぐらいに思えてくるんですよぉ。

まあ、そのうち何らかの形にしたいなと。

あー、これもあれか。
「問題行動をなおす」っていう文脈を破っちゃう的なことか。