「リーダー論が何故にこうも受け入れられるのか?」のシリーズ記事の5回目です。
前回の記事 で、「わかりやすい」「説明しやすい」ということが、リーダー論が広まる要因の1つと書きました。
この「説明のしやすさ」に、更に焦点を当ててみたいと思います。
いわゆる「リーダー論」には、いくつかのお約束がありますね。
一つ、飼い主と犬は一緒に寝てはいけない
一つ、飼い主より先に犬にご飯を与えてはいけない
一つ、ソファーに犬をあげてはいけない
一つ、自分の目線より高い位置に抱いてはいけない
一つ、玄関などの出入りで犬を先に行かせてはいけない
もはやおなじみと言ってもいいかもしれません。
こうしたお約束を守らないと「犬がリーダーになってしまう」というわけです。
ところが、これらのお約束を一切守ってない、つまり「一緒に寝てる」し、「ご飯は先にあげてる」し、「ソファーにばんばんあげてる」し、「しょっちゅう抱っこしまくってる」し、「玄関の出入りとか普通に前に行きますけど?」という犬は、かなりの割合でいます。
で、そういった犬が全員、なんらかの問題行動(いわゆる、支配性とか優位性とかから来る問題行動)をするようになるか?というと、そんなことはありません。
むしろ、そうじゃない犬の方が多いんじゃないか?と思います。
これは、大きな矛盾ですね。
一体、どういうことなのか?となるわけです。
ところが、このような反論が出てきたりします。
「元々、飼い主さんと犬との間で、しっかりとした主従関係が築けていたので、問題が起こらないんです」
いやいやいや、ちょおっとお待ちくださいと思わなくもないですが、とりあえずは一旦置きます。
とにもかくにも、「主従関係が築けている」ので、問題が起きないということです。
さて、突然ですが、あなたは「人間関係」が見えますか?
「何を言ってんだ?」と思われたかもしれませんね。
AさんとBさんの関係が、コップとかカレンダーとかパソコンとか、そういった「実際にある物」のように、実体を伴って見えますか?ということです。
たとえばですよ、たとえば。
職場のAさんは、常に偉そうで、ジャイアンのような人だとしましょう。
そしてBさんは、どちらかというと引っ込み思案で、あまり前に出たりすることはありません。
のび太みたいな感じでしょうか。
Aさんは、Bさんをアゴで使うことが多く、しょっちゅうジュースやお菓子を買いに行かせているとします。
そんな時、AさんとBさんの関係が、まるでテレビドラマや映画の「人物相関図」のように「目に見えますか?」ということを聞いています。
A ―――――――→ B
パシリのように使う
…たとえば、こんな風に見えるだろうか?
何を馬鹿なと思ってらっしゃるかもしれませんね。
ええ、当然そんなものは見えません。
こんな矢印と説明文が人と人の間で見えていたら、ちょっと日常生活が不便そうです。
この「目に見えない」というのは、実に大切なことです。
「関係性」というのは、実際に目で見ることはできません。
「あー、こういう関係があるんだな」と感じることや、考えることはできても、「目で見て確認すること」はできません。
顕微鏡を使おうが、望遠鏡を使おうが、絶対に見えません。
つまり、「実体がない」ということになります。
さて、「目に見えない」わけですから、どうとでも解釈することができます。
この「どうとでも解釈できる」というのが、実に大きいわけです。
そう、先ほどの「元々主従関係が築けていたから…」という話。
何故こんな説明ができてしまうのか?というと、この「どうとでも解釈できる」からこそなわけですね。
これは実に便利です。
どんな風に突っ込まれても、なんとでも言えてしまうわけです。
あるいは、どんな行動であっても、すべて「主従関係」というところに、原因を持って行くことができてしまいます。
引っ張り癖は、リーダーが群れを引っ張っていこうとしてるから。
だから、飼い主がリーダーになるべき。
咥えた物を離さないのは、リーダーが下位の指示に従うわけにはいかないから。
だから、飼い主がリーダーになるべき。
家の中のマーキングも、リーダーが自分の縄張りを主張する行動。
だから、飼い主がリーダーになるべき。
チャイムが鳴ると吠えるのは、群れを守ろうとして犬が頑張っている。
犬が守らなくてもいいように、飼い主がリーダーになるべき。
他の犬に吠えるのも、同様の理由。
他にもいくらでも挙げることができます。
何かを突っ込まれても、まったく心配ありません。
「主従関係」なんてものは目に見えず、誰にも本当のところは確認できないからです。
よって、あとづけの解釈の仕方一つで、どんな説明もできてしまうんですね。
この「説明ができてしまう」ということが、「説明がしやすい」ということに繋がり、更に広まっていくことになるわけです。
まーだ続きます。
前回の記事 で、「わかりやすい」「説明しやすい」ということが、リーダー論が広まる要因の1つと書きました。
この「説明のしやすさ」に、更に焦点を当ててみたいと思います。
いわゆる「リーダー論」には、いくつかのお約束がありますね。
一つ、飼い主と犬は一緒に寝てはいけない
一つ、飼い主より先に犬にご飯を与えてはいけない
一つ、ソファーに犬をあげてはいけない
一つ、自分の目線より高い位置に抱いてはいけない
一つ、玄関などの出入りで犬を先に行かせてはいけない
もはやおなじみと言ってもいいかもしれません。
こうしたお約束を守らないと「犬がリーダーになってしまう」というわけです。
ところが、これらのお約束を一切守ってない、つまり「一緒に寝てる」し、「ご飯は先にあげてる」し、「ソファーにばんばんあげてる」し、「しょっちゅう抱っこしまくってる」し、「玄関の出入りとか普通に前に行きますけど?」という犬は、かなりの割合でいます。
で、そういった犬が全員、なんらかの問題行動(いわゆる、支配性とか優位性とかから来る問題行動)をするようになるか?というと、そんなことはありません。
むしろ、そうじゃない犬の方が多いんじゃないか?と思います。
これは、大きな矛盾ですね。
一体、どういうことなのか?となるわけです。
ところが、このような反論が出てきたりします。
「元々、飼い主さんと犬との間で、しっかりとした主従関係が築けていたので、問題が起こらないんです」
いやいやいや、ちょおっとお待ちくださいと思わなくもないですが、とりあえずは一旦置きます。
とにもかくにも、「主従関係が築けている」ので、問題が起きないということです。
さて、突然ですが、あなたは「人間関係」が見えますか?
「何を言ってんだ?」と思われたかもしれませんね。
AさんとBさんの関係が、コップとかカレンダーとかパソコンとか、そういった「実際にある物」のように、実体を伴って見えますか?ということです。
たとえばですよ、たとえば。
職場のAさんは、常に偉そうで、ジャイアンのような人だとしましょう。
そしてBさんは、どちらかというと引っ込み思案で、あまり前に出たりすることはありません。
のび太みたいな感じでしょうか。
Aさんは、Bさんをアゴで使うことが多く、しょっちゅうジュースやお菓子を買いに行かせているとします。
そんな時、AさんとBさんの関係が、まるでテレビドラマや映画の「人物相関図」のように「目に見えますか?」ということを聞いています。
A ―――――――→ B
パシリのように使う
…たとえば、こんな風に見えるだろうか?
何を馬鹿なと思ってらっしゃるかもしれませんね。
ええ、当然そんなものは見えません。
こんな矢印と説明文が人と人の間で見えていたら、ちょっと日常生活が不便そうです。
この「目に見えない」というのは、実に大切なことです。
「関係性」というのは、実際に目で見ることはできません。
「あー、こういう関係があるんだな」と感じることや、考えることはできても、「目で見て確認すること」はできません。
顕微鏡を使おうが、望遠鏡を使おうが、絶対に見えません。
つまり、「実体がない」ということになります。
さて、「目に見えない」わけですから、どうとでも解釈することができます。
この「どうとでも解釈できる」というのが、実に大きいわけです。
そう、先ほどの「元々主従関係が築けていたから…」という話。
何故こんな説明ができてしまうのか?というと、この「どうとでも解釈できる」からこそなわけですね。
これは実に便利です。
どんな風に突っ込まれても、なんとでも言えてしまうわけです。
あるいは、どんな行動であっても、すべて「主従関係」というところに、原因を持って行くことができてしまいます。
引っ張り癖は、リーダーが群れを引っ張っていこうとしてるから。
だから、飼い主がリーダーになるべき。
咥えた物を離さないのは、リーダーが下位の指示に従うわけにはいかないから。
だから、飼い主がリーダーになるべき。
家の中のマーキングも、リーダーが自分の縄張りを主張する行動。
だから、飼い主がリーダーになるべき。
チャイムが鳴ると吠えるのは、群れを守ろうとして犬が頑張っている。
犬が守らなくてもいいように、飼い主がリーダーになるべき。
他の犬に吠えるのも、同様の理由。
他にもいくらでも挙げることができます。
何かを突っ込まれても、まったく心配ありません。
「主従関係」なんてものは目に見えず、誰にも本当のところは確認できないからです。
よって、あとづけの解釈の仕方一つで、どんな説明もできてしまうんですね。
この「説明ができてしまう」ということが、「説明がしやすい」ということに繋がり、更に広まっていくことになるわけです。
まーだ続きます。