以前から、これまでもずっと
少し引っ掛かってる言葉があります。
ベンゾジアゼピンは
「依存性の強い薬である」と言われます。
その薬を常用していると、身体がそれに慣れて
突然にやめたとき、離脱症状が強く出る
というくらいの意味でしょうか。
しかし
例えば
アルコール依存
ニコチン依存
甘い物依存
などと同列に使うと、
誤解を招きそうに思います。
これらは、やめたときの症状を
「禁断症状」と呼ぶことが多いですね。
その一つに
自らが、欲して欲してたまらなくなる
というわかりやすい症状があるようです。
いつぞやみたドラマで、精神薬依存の入院患者が
夜中の薬局に忍び込み、薬を漁りまくる
というシーンがありました。
これは、アル中患者の依存イメージを
混同したもの、あるいはそのイメージを借りて
薬剤依存の壮絶さを現そうとしたものかと
考えられますが
依存性の強いと言われるベンゾジアゼピン系薬剤
そんななりふり構わぬ行動に走らねばならない「禁断症状」が出ることがあるんでしょうか?
地獄といっていい
離脱症状の経験はかつてしましたが
薬が欲しい!
飲みさえすれば、楽になる!
などの飢えた欲求が湧くことなど皆無でした。
増やしたところで、ほっとした、らくになった
どころか、脳が薬の量の乱高下に揺さぶられて
よけい重篤な症状に陥った。
超絶不眠にはじまる身体症状の苦痛にのたうったけれど、薬欲しさにのたうったわけではない。
それも大きい意味では「身体の依存状態」というものかもしれませんが、離脱症状には心的依存はなかった。
よって
薬剤に関しては
その離脱症状を
「依存」という言葉で呼ぶのは不当な気がしています。
「依存」という言葉を使うとき
一般には、ドラマにあったように
その人の心や意志の弱さ、病んだ欲求や行動
のようなイメージを持たれてしまいそうで
それを危惧するわけです。
好き好んでやってるわけでない(危険さえなければ一気にやめたい)水溶液微量減薬に呆れて
「こういうのこそが薬依存ではないか」と発言していた人もネットでは見かけました。
まあ、「依存」という語の捉え方の違いかもしれませんが。
人間関係においても
それは「共依存」だなどと言うとき
どこかに、人の心の偏向をあげつらう
ニュアンスが込められている気がします。
たしかに
自他問わず
「弱さだな」と感じる、人の行為はあります。
自分ではなく、誰かの為にしか生きがいを持てないとか
誰かに承認してもらわなければ、自分の存在意義を
持てない、など。
それらは、「依存」というものかもしれません。
ただ、
ベンゾに関しては
当人の、依存心ではありません、と
小さい声ですが、薬害被害者として
主張しておきたい気持ちを書きました。
ただ。。。
私の知りあいに
ベンゾの害を知ったうえで
減断薬はせず
「薬でメンタルも生活のクオリティも安定してるのだから、飲み続けるのもありだと思うの」と何かにつけ、問わず語りに言ってくる人がいて。
その選択がその人次第であるのは当然なのに
「言い訳」のような物言いをすることに
なんだか心的依存を感じてしまいました。
因みに言えば
モラハラやDV被害者が
加害者からなかなか離れないのも「依存」(未練?)と見られているきらいがありますが、
それも「そんな単純な図式ではないのでは?」と思ってしまいます。
なかなか離れないのは、しがみつきたいのではなく
相手に洗脳されている自身に気づいた時点で
一気断薬、にあたる「一気絶縁」の危険性を
直感するからでは?と。
物理的に離れても
心=脳がついてこない、のでは
無意味、逆効果であることが
わかるからでした。
慎重で用意周到な自力「漸減」の必要を
悔しくも認めないわけには行かないからでしょう。
心=脳を救うために。時間をかけて。自分の心にメスを入れないと、と。少なくとも私の場合そうでしたが。
依存の誤解を解く意味で書きましたが
ただし、DVは別。心の問題は後に回し、
身の安全確保が必須。
一刻も早く離れないといけないですね。
命に危険まではなさそうな
モラハラでもほんとはそうしたほうがよかったのかもしれません。それに匹敵する被害を事実被ってしまった。(犬が身代わりに)
もしかしたら
ベンゾ断薬も
そうだっのかも。
一刻も早く。。。?
↑
これは、私の独り言です。
今年は、はなみずきの花が早いような。
そしてどこも生き生きと爛漫。
