摂食障害の心と
それ以外の
「本来の心」を考えていて。
本来の心、って「たましい(SOUL)」という言葉がしっくり来るのではないかと思ってます。決して他人が侵せない、変えようとしても入りようさえない自分自身です。
(宗教的な意味じゃありませんので悪しからず‥)
自分はどうだったのかな
これまで、楽になった今の感覚、今できること、を重視して来たし、今もそっちが大切なことは確かなのだけど。
でも、伯母とここ15年を振り返ったり、ブログをして摂食障害の方の心をただ一年半、じっと覗いたりして、
自分自身の摂食障害の前と後を含めた、本来の心の全貌、みたいなものを思うことも度々あった気がします。
私の問題は以前も書いたけど、十代に一回出ていました。
自分の感情が怒りや悲しさ、もしくは虚しさに支配されていて。その裏にある純粋な気持ちにフタがされていて気付かないこと。うまく表現できないこと。
そして人に依存すること。
自分=相手、相手と自分を区別しない、言葉を必要としない、破滅的だったり内攻的、またはフィジカルな関係を渇望すること、です。どちらかと言うと穏やかさなんて求めてませんでした。
依存対象を失ったあと、生きながら死んでいる、みたいな苦しさを味わって。それで自分と人の心の境目に気付き、言葉を使い、人とどう意志を通わせるか、それにどう満足するか、その必要性には気付いていた気がします。
でも、たった一人では例え気付いたとしても、その時何かが苦しすぎて、うまく自分の心を成長(開花)させてあげられなかった。
そればかりか、今度は人ではない何かにアイデンティティを求めて、頑張っても②満足感が一切なくって。そんなときちょうど摂食障害になった。そんなように今は感じています。
摂食障害になって、海の底みたいな停滞状態に入って、言うなら心身共に活動が休止していた気がします。
それから有り難いことに、病を癒せる環境を得て、自分もそれを望んで回復に向かっても、はじめは体と食で精一杯。
体はというと、動きが出たことにより、良いのか悪いのか、ちっともわかりませんでした。
そのあと、摂食障害の苦しさが遠退くと、休止していた、「本来の心」が動き膨らみだした、そんな風に感じています。
だから摂食障害の心がなくなれば、素直な自分らしい女の子にいきなりなれる子もいるんだろうな。
でも私は、どこから休止していたのでしょうか、再スタート地点は苦しいところからだったような気がします。頭とはまた別だったのです。返ってそれが邪魔していたのかもしれません。
出し損ねていた怒り・悲しみ・または寂しさ。やってられなくて、泣いたり怒ったり。自分が子供になったようでした。
これもまた まとめて解消しようと頭で考えて、やりました。でもやっぱり難しく、その都度、随分人にも受け止めてもらった気がします。
自分の感情が出せなかったのは、自分が悪かったのでもない、これからはその都度出していけば良い、とわかると取り合えず毎回落ち着いた気がします。
摂食障害を過ぎて楽になって、そんなふうに本来の心にも気付いて、
「何もしなくても 自分は取り合えずこのような自分である」人はまた人なりの自分がある、ということに納得というか満足感をすごく感じました。
心と体両方が落ち着いたころ、それまでじっとサナギにこもってもがいていた、みたいな状態だったのが、
いきなり抜け出たみたいに、自分らしさが一気に開花したように個人的には感じます。
「自分らしさ」って、
何か特別美しい形でも素晴らしい理想でもなく。大勢であっても、一人であっても、自分の素直な感覚を持って、必要ならその上で頭をつかい、今の自分の範中で選び、生きていける、
それ自体に満足感を感じられる、ってことだと今は思います。
まとめたら、こんなありがちな机上論。ブログに書いてどうなんだろう??そんなふうに思っているのも事実です。。。
飢餓の状態にあっては、体力がつらくて心のありかや成長どころではなく、そういう方は、まずは誰かに今の自分を受け止めてもらい、
環境をふくめて回復方向に自ら気持ちが向かえる、それが重要な気がしていて。
でも。。。
安心して回復に向かえる環境さえあれば、ある程度飢餓の状態にあっても(摂食障害に苦しめられていても)、症状がありながらも、本来の自分の心に気付いてあげて、感覚が開花していく、そんな方もいるのを、ブログを通して知りました。
ほんとに人それぞれのパターンなんだなぁ、そんなふうに思いこんな記事を書いています。
でもやはり、じっくりと病と向き合えている、向き合おうという自分なりの感覚や環境が必要なんだな、その方のブログを拝見してて改めて強く感じたのも事実でした。
次の記事で、摂食障害関連のHPなどをアップさせていただこうと思って。
今日はその前置きとして、少し長く真面目な記事を書いてみました。
それ以外の
「本来の心」を考えていて。
本来の心、って「たましい(SOUL)」という言葉がしっくり来るのではないかと思ってます。決して他人が侵せない、変えようとしても入りようさえない自分自身です。
(宗教的な意味じゃありませんので悪しからず‥)
自分はどうだったのかな
これまで、楽になった今の感覚、今できること、を重視して来たし、今もそっちが大切なことは確かなのだけど。
でも、伯母とここ15年を振り返ったり、ブログをして摂食障害の方の心をただ一年半、じっと覗いたりして、
自分自身の摂食障害の前と後を含めた、本来の心の全貌、みたいなものを思うことも度々あった気がします。
私の問題は以前も書いたけど、十代に一回出ていました。
自分の感情が怒りや悲しさ、もしくは虚しさに支配されていて。その裏にある純粋な気持ちにフタがされていて気付かないこと。うまく表現できないこと。
そして人に依存すること。
自分=相手、相手と自分を区別しない、言葉を必要としない、破滅的だったり内攻的、またはフィジカルな関係を渇望すること、です。どちらかと言うと穏やかさなんて求めてませんでした。
依存対象を失ったあと、生きながら死んでいる、みたいな苦しさを味わって。それで自分と人の心の境目に気付き、言葉を使い、人とどう意志を通わせるか、それにどう満足するか、その必要性には気付いていた気がします。
でも、たった一人では例え気付いたとしても、その時何かが苦しすぎて、うまく自分の心を成長(開花)させてあげられなかった。
そればかりか、今度は人ではない何かにアイデンティティを求めて、頑張っても②満足感が一切なくって。そんなときちょうど摂食障害になった。そんなように今は感じています。
摂食障害になって、海の底みたいな停滞状態に入って、言うなら心身共に活動が休止していた気がします。
それから有り難いことに、病を癒せる環境を得て、自分もそれを望んで回復に向かっても、はじめは体と食で精一杯。
体はというと、動きが出たことにより、良いのか悪いのか、ちっともわかりませんでした。
そのあと、摂食障害の苦しさが遠退くと、休止していた、「本来の心」が動き膨らみだした、そんな風に感じています。
だから摂食障害の心がなくなれば、素直な自分らしい女の子にいきなりなれる子もいるんだろうな。
でも私は、どこから休止していたのでしょうか、再スタート地点は苦しいところからだったような気がします。頭とはまた別だったのです。返ってそれが邪魔していたのかもしれません。
出し損ねていた怒り・悲しみ・または寂しさ。やってられなくて、泣いたり怒ったり。自分が子供になったようでした。
これもまた まとめて解消しようと頭で考えて、やりました。でもやっぱり難しく、その都度、随分人にも受け止めてもらった気がします。
自分の感情が出せなかったのは、自分が悪かったのでもない、これからはその都度出していけば良い、とわかると取り合えず毎回落ち着いた気がします。
摂食障害を過ぎて楽になって、そんなふうに本来の心にも気付いて、
「何もしなくても 自分は取り合えずこのような自分である」人はまた人なりの自分がある、ということに納得というか満足感をすごく感じました。
心と体両方が落ち着いたころ、それまでじっとサナギにこもってもがいていた、みたいな状態だったのが、
いきなり抜け出たみたいに、自分らしさが一気に開花したように個人的には感じます。
「自分らしさ」って、
何か特別美しい形でも素晴らしい理想でもなく。大勢であっても、一人であっても、自分の素直な感覚を持って、必要ならその上で頭をつかい、今の自分の範中で選び、生きていける、
それ自体に満足感を感じられる、ってことだと今は思います。
まとめたら、こんなありがちな机上論。ブログに書いてどうなんだろう??そんなふうに思っているのも事実です。。。
飢餓の状態にあっては、体力がつらくて心のありかや成長どころではなく、そういう方は、まずは誰かに今の自分を受け止めてもらい、
環境をふくめて回復方向に自ら気持ちが向かえる、それが重要な気がしていて。
でも。。。
安心して回復に向かえる環境さえあれば、ある程度飢餓の状態にあっても(摂食障害に苦しめられていても)、症状がありながらも、本来の自分の心に気付いてあげて、感覚が開花していく、そんな方もいるのを、ブログを通して知りました。
ほんとに人それぞれのパターンなんだなぁ、そんなふうに思いこんな記事を書いています。
でもやはり、じっくりと病と向き合えている、向き合おうという自分なりの感覚や環境が必要なんだな、その方のブログを拝見してて改めて強く感じたのも事実でした。
次の記事で、摂食障害関連のHPなどをアップさせていただこうと思って。
今日はその前置きとして、少し長く真面目な記事を書いてみました。