今夜は私のジレンマというか、摂食障害という言葉をいまだに付けてブログをしている性格上、いつも思っていること、最近悶々としたこと、をダラダラだけど書いてみようと思いました。


もうずっと思って来たことになるんですが、克服者はもとより、回復者ということばに、自分はいつまでも、違和感を覚えます。


自分一人で治ったわけでもなく

特別なことでもないと思うからです。

もう6・7年前かそこらになりますか、


食べる恐さがなくなって、治ってきてから、


ネット上の色んな場所や掲示板に行きました。


そして回復した人は、自助的な場所に場違いなのにも気付きました。以来というか、すごく気をつけていることがあります。


それは、奮闘中の方に対しての言葉です。


本当に正直にいうと、自分からは何も言えない。一口食べるのも心を見つめるのも気付くのも本人次第。


でも、妹のように心配してしまう方もいて、そういう時には踏み込んでしまったように思います。それには罪悪感が正直あります。

あとは、ブログを読んでいて、コメにお邪魔することはあります。いつもは遠慮がち?にしてるんだけど、そんな気持ちの時もあるからです。





同じく奮闘中であるならば、

頑張ろう、大丈夫、どうにかなる、こんな食べ方どう?、家族はホントわかってない、太りたくない、食べるもんか、運動、死にたい、体重~キロだよ、治るのどれくらいかかった、全てフラットに言えることだと思います。



でも今の自分のからすると、正直な意見を書いても、それだけではすまされない。


治った側、アドバイス、誘引、とどうしても感じられる、そういう部分を意識しなければいけないんだな、といつも思うようになりました。


仕方ありません。何より今苦しんでないのが大きいです。



あとは、回復した人に対しては、痩せたい、吐いてしまう、食べるのを受け入れられない、そんなメッセージも言いづらい、ということも感じます。それは仕方のないことだけど、



でも、私も第三者に摂食障害についてをきかれて説明するとしたら、まったく奮闘中の感覚を説明するだろうなと思います。


飢餓の症状をわかっていない方は、摂食障害の人にも空腹と満腹がある、と簡単に考えて色んなことを言います。最近そんな書き込みを目にして自由な事だけど悲しくなりました。

太りたくない、食べるのが恐い、もう何もかも嫌だ、休みたい、意味わかんない、見捨てられる=死、

一つのものを食べるのを許すのに一時間・半日、簡単に行かない、何時に何を食べたら‥そんな気持ち私にもわかります。


ただ、今は拒食的な心やネガティブを応援しないだけで‥。それをやったらお仕舞いのような気がするからです。



その点、ブログというものは、とても個人的なスペースで、私の部屋のようなもの。どんな部屋かを知って、納得して、気がむいた時、来ていただいて、


全面的に受け身なのもすごくいい。



摂食障害についていただいたことに対しては、精一杯お返事する、わかんないことは、わかんない、


自分は異常ではない、萎えたとき勇気をまた少し持ってもらえたら、が本音ですけど。


でも運動や食事、具体的な数字は、比べてしまう恐さを思うとやっぱり書けません。。


でもプチメでこっそり話したことはあります。


あとは摂食障害の人であっても、摂食障害が全てではないから。

音楽だとか、料理とか、子育てだとか、映画やアニメに詳しいとか、私が知らないこと、雑談もしたい、あわよくば何か教えてもらったり、励ましてもらおー

と。



そんな感じには、ブログって最適な形なんだなと改めて気付きました。





って、固くなりましたが、やはり摂食障害は不安定にもなりやすく生死に関わる病だからです。知らない方への理解の期待もあります。


悩まれている皆様は、ご自分をいたわり、周りの方に日々の思いを知って頂き、今のありのままを受け止めて(愛して)もらって初めて進める。それは病の時は必要不可欠であり、甘えというレベルにも至ってない。生きていることが一つの頑張り。っていつも思っています。


摂食障害については、これからもたまにしか書かないと思うけど、

これからもたまに覗き見したり、マイペースに行きたいな。よろしくお願いします。