親元を離れて摂食障害やらと向き合って、


人に頼ったり助けられて、色んなことを大切に思えるようになったことは良かったんですが、


ある時期
自分が周りの人たちとは、生きることへの感覚にギャップが出来たような、苛立ちを感じたことがありました。


友達と会って、楽しく食事して、そんな当たり前のことが嬉しくても、

お姑さんやら、お義姉さんやらの些細なことで悪口を言う友達、

産後のスタイルを気にして「あと1キロ」減らすことに懸命な友達。


なぜか解りませんが、そんなどうでも良いことを一生懸命言ってる彼女たちにイラつきを感じました。

少しの人の特性や外見なんて、その人自身の尊厳を思うと、どってことないのに・・・


それとは違った苛立ちを感じたのは、両親にもそうでした。


何かの流れで、障害の話になったとき、父が「でも、それは違う世界の話でしょ」と言ったことに、ムカッと来たり。


MPD症について何も聞いてこない、理解しようとしないのに、

体が悪いらしい…ということで
「神社でお祈りしといたから」とメールが来て、

何も知りもしないのに、何をお願いすんのよ?!

意味解んない、むしろ腹が立つ・・・とか思ったり。


そんな自分が嫌で、
この苛立ちの正体は一体何なんだろう…?


って正直にさぐったら、それは

心の固さ

理解されたい気持ち

だったようです。



友達に対しては、
そんな自分の心の固さに気付いてから、苛立ちを感じなくなりました。


友達らしさを、私が何か判断してイラつくこと自体余計なお世話で、

昔の「人を思いどおりにしたい」気持ちと同じなことに気付き、ハッとしました。人を変えることなんて出来ないし必要ない。出来るとしたら時間と優しさだけだと気付いたはずだったのに。



「理解されたい」気持ちに関しては、

摂食障害の体験から、回復して自分でも病を忘れるところまで行ってしまえば、消えてなくなるのが解っていました。



だから、もう一つの症状も、理解をはじめから求めないことで、心の安定を得るようになっていました。


でも・・