家族のことを思い返すのは初めて…で、ぼちぼち挟んで書いてみようかな、と思います。


私は母の希望でカソリックの小学校に入りました。いわゆるお嬢様学校です。


そこでは道徳観念の強い教育を受けました。でもとても良い学校だったと思います。



学校では意志を言葉にすることが極度に苦手でした。

通信簿には、いつも「感受性が強い」「協調性が弱い」に丸がついていました。恥ずかしがり…といえばそれまででしたが全然しゃべらない子でした。


毎週土曜まで授業があり、4年生頃から平日塾に行きました。受験ブームだったのです。



受験校は相談するでもなく、母には昔から入れたい学校がありました。昔自分が行きたかったところです。


塾に行くと成績が急激にのび、全校生徒の前で成績を誉められました。でも、自分ではぼ~っと行っただけだったので実感も嬉しさもなく、ただ恥ずかしいだけでした。


そのあと何故か日曜の朝夕も、一日中塾に行くことになりました。


でも苦痛でした。やる気まんまんの子達に着いていけなかったんです。


でも嫌だ、という言葉が言えず、内緒でさぼり夜父が迎えに来るバスに乗るまで時間をつぶしました。罪悪感いっぱいでしたが。


後から、母が近所のコスモス畑で私がさぼって一人遊んでいるのを目撃してた事を聞きました。なぜ声をかけなかったのか…わかりません。その後塾は止め、家庭教師が付けられました。


母は楽しむ事は好きで、人の悪口もほとんど言わず弱い人でした。


人づきあいは自分の親兄弟以外ほとんどありませんでした。実家に入り浸り、親と姉達に頼っていました。


回覧板や連絡網の電話も回したがりませんでした。近所付き合いもママ友達も一切ありませんでした。


何かの料金の支払いを、お金がない訳でもないのに滞納したり、郵便受けや家やバックの中もグチャグチャで整理整頓ができませんでした。


その2つの事で度々父がイライラしていました。


私は子供だったので、そんな事には鈍感でしたが、学校に行けば善と悪、立派な教育を受けていても、帰ればろくな会話もせず、忘れ物や遅刻も多く、警告カードをもらいました。

いつも自分がだらしない…と思っていました。




母は兄弟達と英会話教室をしていて、


その頃から夕方家に誰もいない事が増え、合いカギをくれるのでもなく、締め出されるか、祖母の家に行かされました。


当時は気付いていませんでしたが、その時自分自身の感情表現が言葉でうまくできてませんでした。


学校は遠く離れていて友達付き合いもなく、両親は毎晩酒を飲んでいたので、きちんと話す事もありませんでした。


願書の件で、食事時に父に話を切り出すと、母は「今日は結婚記念日だから出かける約束でしょう…」と、言いだしお話になりませんでした。


何かがおかしい…
でも何と言えば良いか解らない…

家族に訴えたい事はあまのじゃくや怒り、ややこしい行動になって現われました。それが反抗期でした。